芸術と家庭・・・文学編(10)local_offer芸術と家庭
長島光央
人類も宇宙も一つの家族
秀抜な感性と詩情で「いのち」を歌う
金子みすゞ(本名・金子テル、1903─1930)という山口県生まれの女流詩人は、ここ30年あまりの間にうなぎ上りにその名を馳せて、多くのファンを生み出しています。その薄幸にして短い人生に比べ、彼女の作品に表された内面世界はあまりにも豊かな美しい情感に溢れていて、読む者たちの心をとらえてしまうのです。
経済的に豊かになった現在の日本社会ですが、その反面、心の貧困化を招いているという嘆きの声があちこちで聞かれます。そのような現代人の心の砂漠に慈雨を降り注ぐ役割を神様から引き受けているかのような金子みすゞであると言っても過言ではありません。それほどに彼女の詩情はみずみずしく、また温かく、慈愛に満ちています。
児童虐待、老人虐待、学校でのいじめ、職場でのいじめ、といったような陰惨なニュースばかりを耳にする今日、金子みすゞの詩の一篇でも読んだら、「こんな風に世界を見つめ、感じ取ることができたらどんなにいいだろう」と思わずにはいられないでしょう。命の大切なこと、すなわち、すべての生き物の連鎖する世界を擬人法の表現によって、宇宙一大家族のように謳い上げる金子みすゞの詩世界は何人も近づけない孤高の世界を誇っています。
彼女が、ここ最近、急激な人気を博して登場した理由は、多くの日本人が失ってしまったと思われる「生命への畏怖の念」を見事に作品の中に表白しているからだと考えられます。ゲーム感覚で人の命、動物の命を奪う出来事が、日本のみならず世界中に広がっているという嘆息が人々の中にあるからこそ、「いのち」を謳い上げる金子ワールドが迫ってくるのです。
彼女は、人間どうしも家族、人間と動物(魚、鳥、すべての生き物)も家族、人間と植物も家族、人間と宇宙の星々も家族、すべては家族であるといった強固な連帯感で世界を感じていたのではないかと思われます。彼女は、人間の家族の延長線上に、生き物たちの家族を擬人化して語ります。人間の家族に喜怒哀楽の世界、幸不幸の世界があるように、生き物の世界にも同様の感情を持ち込んで語ります。「命の世界」、そして、「同じ命で結ばれた家族の世界」、こういう原点思考が金子みすゞの詩世界の根源を形成していると思われます。
実人生の薄幸を詩作で乗り越える
金子みすゞの実際上の人生は、幸福な人生とは言えません。夫の不埒(ふらち)な生きざまのために、夫との関係もうまくいきません。離婚沙汰にもなります。ひとり娘の親権を巡って、揉もめたりします。
彼女の人生は災厄に見舞われる人生だったかもしれませんが、彼女が残した500篇の詩は、不滅の光を放っています。人生の様々な悲しい出来事に遭遇しながら、彼女は詩作を楽しみ、その中に救いを見出していたのかもしれません。
金子みすゞが拘った「いのち」の主題は、彼女の育った環境からきていると見られます。山口県の仙崎は鯨を捕ってきた港です。鯨は人に食べられてしまいますが、人間と同じ哺乳類であり、人間が生きるために人間に近いと思われる鯨を食べるということは、罪なことであると考えると、“鯨様”に何らかの供養をしなければなりません。実際、先崎には鯨墓があります。鯨の供養のために「鯨法会」の慣わしもある地域です。こういう土地柄が、金子みすゞの魂に「いのち」というテーマを深く刻んだと思われます。
天才詩人への讃歌はどこまでも広がる
彼女の死後、しばらくはそれほど知られることなく時が過ぎ去っていきましたが、1980年代半ばから、彼女の詩は衆人の知るところとなりました。その詩の価値が認められるようになり、教科書に掲載されたり、音楽作品になったり、とにかく、猛烈な勢いで、日本列島を席巻します。
このような彼女の人気の背景には、伝統的な日本人の精神に強く共鳴作用を引き起こす要素がその作品の中に謳われているからではないかと思われます。それは、日本人の「自然への慈しみ」「自然へのいたわり」です。自然を大切に思う、自然を大切に扱うといった伝統的な精神が日本人にはあります。俳句などを楽しむ心も自然への愛から来るものです。
たとえば、よく知られた彼女の詩「大漁」は、「朝焼け小焼けだ 大漁だ。大羽鰮(おおばいわし)の大漁だ。浜はまつりのようだけど 海のなかでは 何万の鰮のとむらいするだろう」です。この短い詩の中に、食べられてしまう鰮の立場からの、海の中の「イワシ家族」の弔いの情景へ視線を移してしまう金子みすゞの手法があります。これは明らかに自然へのいたわり、生き物へのいたわりであり、相手の立場に立って考えるという日本人の民族的特性を思わせます。自然万物のすべてに「いのち」を吹き込んで考える日本人は、まさしく、これからの世界に向かって、「人類も宇宙も一つの家族である」という価値観の実現を目指すことでしょう。