機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(9)

芸術と家庭・・・文学編(9)local_offer

長島光央

家族の愛の理想を詩中に語る

精神の深奥に問いかけ、神と対話

リルケ(1875―1926)という詩人の名前は、彼の作品を読んだことがあるかどうかは別としても、誰でも聞いたことがあるでしょう。残された彼の顔写真を見ると、真実を追求する誠実で真摯な表情をしていることが分かります。リルケの詩を読んで思うのは、事物や事象の観察に優れ、それらを自己とのかかわりに引き入れて、精神の深奥部で神との対話に持ち込んでいく詩情世界をリルケは天性として持っていると言ってよいかもしれないということです。

リルケはプラハに生まれたドイツ人(オーストリア人)ではありますが、父のヨーゼフは古い名門貴族の末裔、母のゾフィーはプラハの名家(ボヘミア銀行の重役)ということで、彼は自分の出自に矜持を抱いていました。しかし、父親の弱い生活力に愛想をつかして、リルケが9歳の時、母親は夫と別居してしまいます。母親から幼い時にフランス語の手ほどきを受けるなど、ユダヤ系であった母親の一徹な精神と教育の影響を良くも悪くも受けて成長しました。父親はリルケに軍人になるよう勧めますが、リルケは葛藤を覚え、軍人の道を諦めたため、父親は息子に失望しました。

プラハ大学やミュンヘン大学で学びつつ、詩作を発表する中、彼は詩人としての地歩を固めていきます。リルケをどのように評価するかに関しては、「リルケの探求は、苦悩を積極的エネルギーに変えるリルケの強靭な内的意志力によって、ついには喜びに充ちた生の肯定の方向を指すに至る。現代の不安の感情がこれほど内面的につきつめた形で文学的表現を得ているのはまれなことであり、ハイデッガーはじめ実存主義者たちがしきりにリルケを扱うのも当然のことであろう」と論評した手塚富雄氏(ドイツ文学者)の言葉に尽きるように思われます。リルケは非常に哲学的かつ宗教的な詩人であると言えます。

感性豊かなリルケの透徹した詩魂

『僧院生活の巻』(1899)のなかで、「どうなさいます 神様 もしも私が死んだなら?」と書いて、「私とともにあなたの意味が失われます」と答えている詩があります。一個の人間の死が神の存在理由を失わせるとは一体どういうことでしょうか。神の存在そのものが一人一人の人間の命と生活に密接に繋がっていると解釈するならば、地上の生を終えた人間の運命が神の存在理由を失わせるというのです。

19世紀末のヨーロッパの中で過ごしたリルケであり、誰よりもその時代の不安と退廃、憂鬱感を感じていた彼は、人間の幸福が約束されない限り、神様の喜びも平安もないと言っているのだと思います。私の幸福と神様の幸福が一体であり繋がっていると見ているのです。不幸なまま死ぬのは、神様の願いではなく、神様が存在している理由にならないと考えているのです。

リルケは、神様を理解するのに、大地が神を理解するように理解しようと思うと言っています。これは、自然界が神の愛の中にあり、神の定めた法則通りに運行して、神を讃えているのと同じように、神を理解し、神を讃えたいと言っているのです。しかし、神の国が完成するのは人間によると考え、人間の霊的成長の度合いが神の国を完成させるのだと述べています。詩の中で述べている「私が成熟するにつれてあなたの国も熟します」という言葉がそれを意味しています。リルケの詩の一篇一篇が非常に深い思想で語られており、ときに難解であるとすら言えますが、こういう形而上的な詩を書き続けたリルケは神との神秘的な融合を遂げたいと願っていたのかもしれません。

妻子の涙を感じながら詩作と旅の人生

リルケの生涯は詩作と旅の人生でした。ドイツ、ロシア、イタリア、フランス、スペインなど、ヨーロッパ各国を転々としながら、詩想のインスピレーションを得るままに、詩を書き、収入を得て暮らしましたが、妻のクララと一人娘のルートとはほとんど一緒に暮らすことがなく、仕送りをし、手紙を書くのが精一杯というところでした。純粋な詩人が詩作と旅に人生を費やしているとき、妻子が一緒に旅をしながら転々とすることは実際むずかしいことであったでしょう。

『形象集』の中に、「いまどこか世界の中で泣いている 理由もなく世界の中で泣いている者は 私を泣いているのだ」という意味深長な言葉があり、多くの解釈ができるでしょうが、素直にとれば、クララとルートを置き去りにして、異国を旅しているリルケにとって、妻子の涙を常に感じていたのではないでしょうか。「私にもっとも貴重なものを与えてくれる生命のなかに いつか私が甦えるならば…そのとき私は独りで泣くだろう」、この言葉はクララのことに言及しているように思われ、推測するしかありませんが、詩人の言葉は深く、密かに家族の愛を詠っていたと信じたいところです。