福祉のこころ 地域医療・包括ケアの現場から (18)local_offer福祉のこころ
牧 師 大喜多紀明
目指すべき、真の愛に溢れるコミュニティ
私は教会の職員として、信徒の家庭教育を比較的長く担当してきた。
教会が取り組んでいる主要なものは、「理想的な家庭」づくりであり、私自身も家庭の価値の大切さを訴えてきた。家庭が、人間の幸福の礎であることについては、多くの人の同意するものと信じている。
しかし、何らかの支援を必要とする家庭に家庭の価値をいくら訴えたとしても、支援が必要でなくなるわけではない。つまり、家庭の危機に実際に直面している人に対しては、家庭の大切さをいくら訴えたとしても、当事者が抱える心の痛みが解決することはないのである。また、家族に障がいを持った人がいらっしゃる場合や、介護が必要な高齢者がいらっしゃる場合も、同様である。その家庭に正面から向き合い、効果的なサポートが何なのかを一緒に探しだそうとする努力はとても大切である。
ただ、言うのは簡単だが、現場で直面する問題は多岐にわたる。当事者の心理も人それぞれだ。私の教会では、コミュニティ単位で信徒の交流をしているが、信徒間で互いに助け合う関係性がしっかりと構築されているかといえば、そうともいえない。
私は10年ほど前からこうした課題の解決のために取り組めることはいったい何なのだろうかと考えはじめた。そして数年前になるが、私の教会には高齢者が多くいらっしゃるので、認知症予防のために「回想法」の勉強を開始し、心療回想士の資格を取得した。その後、高齢者の人生に肯定感を持っていただくために、その方の「ライフ・ヒストリー」をまとめることに取り組み始めたのである。もちろん、こうした取り組みによって、すべての問題が即座に解決はしないであろう。しかし、私には、この取り組みをしたことによって、この方とその家族の皆様の幸福感が増大したという実感がある。
ところで、私は、福祉にはほとんど関係がなく過ごしてきた。むしろ無関心であったのかもしれない。そもそも、私には福祉に関する基本的な知識もなかった。そのために、支援は感覚的なものとなる傾向があった。また、効果的な支援をおこなうためには、公的機関によって提供される援助などを有効に活用する必要があるのだが、それもよくわからなかった。
そこで、思い切って通信制の短大と大学で福祉と心理学を一から勉強することにした。浅学寡聞な身であるが、福祉とその精神は、すべての人に例外なく必要なものであると理解することができたのである。
教会には、崇高な天の国実現の理想と、それを実現するためのみ言がある。み言を実践することにより、神の国は確実に近づいてくる。だからこそ、支援を必要とする人たちへのサポートについても、本来、私たちはプロフェッショナルであるべきだと思う。福祉は特定の人に対して必要なのではなくむしろ、すべての人が修得すべきスキルである。
さらに、これから地域に根ざした活動を一層推進しようとするならば、なおさら、福祉に関する最低限の知識が必要である。私たちの活動は、地域を福地化するためのものであり、決して一部の限定された人たちのためだけにあるのではないのだ。目指すべき共同体は、「福祉のこころ」にあふれた、真の愛によるコミュニティである。