芸術と家庭・・・文学編(18)local_offer芸術と家庭
長島光央
自他合一の心こそ愛
愛と認識との出発
倉田百三(1891~1943)という作家がいます。明治、大正、昭和にかけて活動した人物であり、深い哲学的な思索を重ね、西田幾多郎の『善の研究』を熟読玩味した彼は、多くの文芸作品を書きました。中でも、多くの人々に読まれたのが、独特な深みを持つ『出家とその弟子』という作品であり、彼はそれを1917年(26歳)に世に出しました。百三は、西田天香によって設立された懺悔(ざんげ)奉仕団体「一燈園」での体験をもとにして、親鸞とその弟子唯円を戯曲という形で描きました。この作品は、世界各国で翻訳され、ロマン・ロランが絶賛したという話は、特に有名です。
一方、『愛と認識との出発』という表題の評論集を出版したのが、1921年(30歳)のことで、これは当時の学生に大きな影響を与えました。生々しい百三の哲学的思索の葛藤が描かれ、当時、唯物論(共産主義)の嵐が吹き荒れる中、これに強烈な異議を唱え、唯心論的な思想に耽溺したことを告白しています。しかしながら、やがて唯心論は、その方向性を間違えれば、おのれの心が世界と宇宙を支配するという非常に自己中心的な思い上がった迷妄の論理、すなわち、唯我論に陥る恐れがあるとして、ショーペンハウエルなどの思想に決別を告げます。唯物論、唯心論、ともに限界があると見たわけです。
辿り着いたのが、西田幾多郎の『善の研究』でした。西田幾多郎は『善の研究』の中で、「神は全く無である。然らば神は単に無であるか。決してさうではない。実在成立の根底には歴々として動かすべからざる統一作用が働いている。実在は是によって成立するのである。神の宇宙の統一である。実在の根本である。そのよく無なるが故に在らざる処なく、働かざる所がないのである」と述べていますが、こういう文章に出くわすと、百三は深く思索をめぐらし、宗教的な世界へ導かれて行ったのです。
宗教世界が語る愛をどう認識したか
百三は、愛について、様々に思いをめぐらしますが、結論的には、「愛は生命の根本的なる実在的な要求である。その源を遠く実在の原始より発する、生命の最も深くして切実なる要求である」と言い、「その愛の源流は何であるか。それは認識である。認識をとおして、高められたる愛こそ生命のまことの力であり、熱であり、光である」と主張します。さらに「愛は主観と客観が合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。真生命に帰一せんがために、おのれに対立する他我を呼び求むる心である」と述べ、「私らは愛するがためには知らねばならず、知るがためには愛しなければならない。われらはひっきょう同一律の外に出ることはできない。自他合一の心こそ愛である」と、『愛と認識との出発』において結論づけました。それは、西田幾多郎が「愛とは知の極点である」と述べたことと、ほぼ重なる主張と言ってよいでしょう。
倉田百三の背景と人生
倉田百三は、広島県出身であり、呉服商の長男として生まれました。上に姉が4人、下に妹が2人、男の子は彼一人でした。1910年には、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)へ進んでいますが、父の勧めで、2年生進級時に法科へ転じています。1912年、西田幾多郎の『善の研究』に感銘を受け、帰郷して父を説得し、哲学を学ぶために再度、文科へ転じることを認めてもらいました。1913年9月、肺結核であることが判明し、須磨で病気療養します。1914年3月、故郷の庄原に戻りますが、キリスト教に興味を持ち、庄原教会に通い始めます。そこで後に妻となる神田晴子に出会いました。
1915年11月、京都の一燈園に妹の艶子と共に入り、二人で生活をしながら深い信仰生活を送ります。1917年、キリスト教徒である妻晴子との間に倉田地三が生まれますが、1920年の12月に百三と晴子は離婚し、1924年に彼は伊吹山直子と結婚します。病気療養で転々とする人生を送った百三でしたが、1943年2月、満51歳で、肋骨カリエスのため死去、多くの著作を残した作家人生に幕を閉じます。
宗教的テーマや愛についての思索を重ねた倉田百三の人生の核心部分にあるものは何であったのでしょうか。彼の人生でしばしば語られる問題として、女性関係が挙げられます。愛の葛藤と苦悩を背負った作家というイメージが非常に強く打ち出されます。
キリスト教が特に強調してきた霊と肉の葛藤というテーマの中で、百三の愛は大きく揺れ動いていたと思われ、それが彼の複雑な女性関係に投影されたのだと言えます。複雑な女性関係も裏を返せば、理想の夫婦愛を求め、理想の家庭を求めた百三の魂のあがきのようなものであったと見てよいでしょう。