機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・文学編(19)

芸術と家庭・・・文学編(19)local_offer

長島光央

夫婦は「神のかたち」

キリスト教の家庭観の根拠を探る

マルチン・ルター

イエス・キリストは家庭を持つことができませんでしたので、家庭の在り方について明確に語る機会もなかったと思われます。それでも、聖書を読みますと、旧約聖書のモーセの十戒に、ヒントになる具体的な戒めがあります。

マルチン・ルター(1483~1546)の書いた『マルチン・ルターの小教理問答書』は、「十戒について」「使徒信条について」「主の祈りについて」「洗礼について」「罪の告白について」「聖餐式について」「朝と夕べの祈り」などの主題を掲げ、キリスト教の教理として分かりやすく解説しています。特に十戒の説明の中で、第四の戒め、第六の戒め、第十の戒めが、家庭の在り方に大きな影響を及ぼす内容として記述されています。第四戒が「父母を敬うこと」、第六戒が「姦淫をしてはいけないこと」、第十戒が「隣人のもの(隣人の妻など)を欲しがってはいけないこと」であり、これは波風の立たない立派な家庭をつくるための倫理観が示されていると言ってよいでしょう。

モーセの十戒は、第一戒から第四戒までが「縦軸」を中心に見た倫理観、第五戒から第十戒までが「横軸」を中心に見た倫理観であると言われます。縦軸は、神と人間の関係(父母と子供の関係=親子関係も含む)、横軸は人間と人間の関係を信仰規定、倫理規定として述べているわけです。したがって、モーセの第四戒は縦軸、第六戒と第十戒は横軸となります。

第四戒の「父母を敬え」は、神と人間の関係が、家庭の中において、父母と子女の関係として投影されることを表しています。本来、理想の父母は子女の前に「神」の代理として立つ役割を持っています。子供が神を知るのは、父母を通してであるということです。父母を敬うのは神を敬うことと同義語であると言ってよいわけです。

もちろん、今日の人類は罪人として神から離れ、到底、神のごとき存在とは言い難い状態ですから、父母を敬うのが難しい場合が往々にしてあります。すなわち、子供が父母に対して葛藤する場合が非常に多いのです。父母を心から敬う家庭があれば、それは、それだけで理想家庭に近いと言えます。

理想家庭のポイントは夫婦関係にある

第六戒も第十戒も、姦淫してはいけないということですから、夫婦が愛と信頼の糸で結ばれ、不倫をすることなく、お互いに貞節な関係を保つことがいかに大切かということを強調しています。夫婦の愛の関係は神が定めた神聖かつ永遠の関係です。

今日の世界的な家庭崩壊現象の原因の中で最も重大な要素が、不倫です。夫の不倫、妻の不倫、これは離婚の一番の原因となっています。夫婦の関係が崩れるということは、そのまま、家庭が崩壊することを意味します。人間と人間の横的関係の中で、最大最高の倫理関係が夫婦の愛の関係であると聖書は述べているのです。それが、モーセの第六戒と第十戒において姦淫してはいけないと強調されている理由です。夫婦は、いわば、「神のかたち」であるというのが、聖書の根本思想です。神の中の男性(陽)と女性(陰)が、人間の男性と女性として分立、顕現し、二人は結婚して一つとなって、「神のかたち」となるのです。人と人との関係の中で「夫婦の関係」ほど、大切なものはほかにありません。

修道女カタリナ・フォン・ボラと結婚

ルターは、1517年に宗教改革を起こしましたが、多くの苦難を経験しながらも、一人の女性の献身的な理解と支えにより、その生涯を全うしました。その女性はカタリナ・フォン・ボラ(1499~1552)と言います。彼女は貴族の出身であり、ローマ教皇を首長とするカトリック教会の修道女でした。しかし、26歳の時、修道院を飛び出し、41歳のルターと結婚して、その妻となったのです。

ルターは、彼女のことを非常に尊敬していたようです。彼女の毅然とした信仰の姿勢と如何なる嫌がらせや迫害にも負けない強さに敬服して、「私の女王」と呼びました。ルターはカトリックの神学者らに結婚の喜びと子供を持つことの喜びについて語っています。しかし、神学者らは容易に受け入れようとはしませんでした。ここに、プロテスタントのキリスト教が誕生し、プロテスタントにおいては、牧師や神学者たちの妻帯が可能であるという道を作り上げたのです。

キリスト教における聖職者たちの独身主義と妻帯主義は、カトリックとプロテスタントの教理上の最大の相違点となって、今日に至っています。しかし、「うめよふえよ」の聖書の原点にある思想に従って、カトリックの聖職者たちが結婚と妻帯、そして家庭生活の道を歩む時代圏が訪れているのではないかという感じがします。その方が自然なのです。