芸術と家庭・・・音楽編(19)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
人生ドラマを芸術に
オペラ王と呼ばれるヴェルディ
イタリアは声を出して歌う歌では右に出る国がないほど、歌う国民性の国です。大衆音楽の流行歌だけでなく、クラシック音楽のジャンルでも器楽演奏だけでは物足りず、壮大な物語のセリフを全部、役者たちが歌う歌劇にしてしまわなければ気が済まないお国柄です。17世紀のモンテヴェルディに始まる歌劇(オペラ)の伝統があり、ヨーロッパの他の国に先んじて、オペラを楽しんできた国、それがイタリアです。
ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)は、「オペラ王」の異名で呼ばれるほど、オペラ作品の数々の傑作を世に残した作曲家として知られています。
BC587年、バビロニアとエルサレムが敵対関係にあった状況下で、バビロニア王の娘とエルサレム王の甥の間に恋い慕う関係が生じ、そのことによって、複雑な物語が展開されるという作品『ナブッコ』(1842年初演、ヴェルディ28歳)は、大きな反響を呼びました。第3幕でヘブライ人たちによって歌われる「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」は、印象的かつ感動的な歌声として観客の心に沁みわたり、現在でも非常に人気のある曲です。
1851年(37歳)に初演された『リゴレット』の第3幕の中で歌われたアリア(独唱曲)の「女心の歌」は、日本では「風の中の羽のように いつも変わる 女心」というように歌われます。その軽やかな歌とは正反対に、物語はマントヴァ侯爵に仕えるリゴレットが、侯爵の殺害を殺し屋に依頼。しかし、リゴレットの娘ジルダが侯爵をかばい、身代わりになって殺されるという悲劇で幕を閉じます。
ヴェルディが39歳となった1853年に初演された『椿姫』は、彼の代表作で、世界中で人気を博しています。『椿姫』の第1幕で歌われる「乾杯の歌」もまた、世界中の人々に口ずさまれる人気の高い曲です。社交界の華ヴィオレッタ(椿姫)と青年貴族アルフレードの情熱的な愛の物語ですが、病に倒れたヴィオレッタが息絶えて終わるという結末になっています。
そのほかにも、『イル・トロヴァトーレ』(1853年初演)、『運命の力』(1862年初演、49歳)、『アイーダ』(1871年初演、58歳)、『オテロ』(1887年初演、73歳)など、多くの名作をヴェルディは書き上げました。『アイーダ』の第2幕で歌われる「凱旋行進曲」も、大合唱の醍醐味を味わえる非常によく知られた曲です。
大衆に寄り添う音楽としてのオペラ
クラシック音楽の器楽演奏も人気のあるものですが、歌劇の場合、言葉を通じて、舞台上でストーリーが展開されるので、その分、具象性(具体的な物語の場面)というリアリティを獲得します。ヴェルディのオペラの中の曲が、大衆に受け入れられるのも、そのような分かりやすさがあり、人々が気軽に口ずさみやすいからだと思います。
ヴェルディの作品は、ほとんど、悲劇であり、男女の愛のもつれ、裏切り、殺人、たくらみ、陰謀といった要素が物語の中に満ちています。大衆はそういうものを好むものだ、とも言えますが、ヴェルディの特筆すべき点は、その作曲技法により、それらを見事な芸術に変えてしまうということです。その結果、観客は善悪こもごもの人生ドラマを芸術として鑑賞することになるのです。
ヴェルディの結婚と人生
ヴェルディは、1836年(23歳)にマルゲリータ・ヴァレッツィと結婚します。才色兼備の女性でしたが、結婚4年目、27歳で病死します。二人の間には一男一女が生まれますが、それぞれ1歳、1歳半で死亡してしまいました。
最初の妻と子供二人を失ったヴェルディは、1859年(46歳)に、ジュゼッピーナ・ストレッポーニと再婚します。再婚相手には不倫のうわさがあり、ヴェルディの周辺の人々は、ジュゼッピーナとの結婚に反対しますが、ヴェルディは反対を押し切って再婚しました。
1899年、ヴェルディは音楽家たちのための老人ホーム「憩いの家」を完成させます。死後、ヴェルディとジュゼッピーナの亡骸は「憩いの家」に葬られ、30万人もの人々が『ナブッコ』の一節「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」を歌い、ヴェルディ夫妻のしあわせを祈りました。