芸術と家庭・・・音楽編(23)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
音楽の喜びは家庭から
モーツァルトの曲は家庭演奏会が始まり
モーツァルトの父レオポルト・モーツァルトが、自分の子供たちを引き連れてヨーロッパ中を旅し、各都市で演奏をさせた話は有名です。そこに集った人々は、何よりも先ずモーツァルト姉弟の姿や技量に驚きを覚え、次にモーツァルト一家の演奏を鑑賞するという状況でした。
演奏旅行では、レオポルトは広間=ホールを借り、神童が登場する旨を大急ぎで告知し、それに興味を持った人々が来場するというスタイルで演奏会を行いました。広間=ホールがない都市では、息子のモーツァルトに教会のオルガンで演奏させる場合もありました。チケットの収益や聴衆のカンパを元手に、彼らは旅を続けたのです。
子供たちが貴族や領主の館で演奏する場合は公開の演奏会ではなく、限られた聴衆のための私的な音楽の集いであり、家庭演奏会とでもいうべきものでした。当時は、いくつかの街には演奏会用ホールが存在していましたが、そうした施設を持たない街も多くありました。
モーツァルトが成長してパリに赴いた際、そこでは公開演奏会がしっかりと確立されていることを目の当たりにしました。その一方でウィーンにおいては、主催者がパリのような演奏会を行おうと目論みながら、結局はうまく事を運べず、期待したほどの成果を得られないということも経験しました。
従って、原則的には、作曲家や演奏家自身が、演奏会の主催者になるしかなく、またそれが当然という状況に対し、モーツァルト自身もまったく疑問に思っていなかったのです。モーツァルトの器楽曲の大半が、家庭内や私的な集い、あるいはそれに近い場で演奏されるために書かれている所以です。それでも当時の作曲家の中でモーツァルトほど、公開演奏会の誕生と発展の様子を個人的に体験した者はいなかったかもしれません。子供時代の演奏旅行から始まり、成人になってウィーンで開催する演奏会に登場するまでの長い発展の道のりの中で得た体験を土台として、彼は自身を作り上げていったのです。
演奏会ホールの不在
モーツァルトの時代、ウィーンとザルツブルクには、演奏会ホールというもの自体が存在しませんでした。ザルツブルクにおける器楽の演奏は、どのような編成であろうと、私的あるいは半公開の状態で行われていました。
一方、ウィーンでは、劇場や多目的ホールが空いている日には演奏会が行われました。ちなみに、ウィーンで初の演奏会ホールはウィーン楽友協会の中に作られましたが、オープンしたのは実に1831年でした。
偉大な家庭人としてのモーツァルト
今日私たちがよく知っている公開演奏会のあり方は、歴史的に見ればかなり最近になってから形作られたものであるということです。音楽を聴くために入場券を買うという方式も、中央ヨーロッパにおいては18世紀半ばから少しずつ現れ始め、18世紀も最後の四半世紀に至ってようやく一般化しました。
また、当時は演奏会を主催する専門家というものも存在しませんでした。芸術家、つまり作曲家や演奏家自身が演奏会の主催者であって、純益はそのまま彼らの懐に入りました。ただし慈善演奏会の場合は社会的な目的のために収益が用いられました。このような演奏会において、主催者=芸術家のメリットと言えば、会場を埋め尽くした人々に自らの芸術を披露できるという喜びでした。
当初、公開演奏会はけっして日常的な催しではありませんでした。音楽の多くは、私的な集まりの中で生産あるいは消費され、それを聴きに来ている限られた人々のみが念頭に置かれていました。このような歴史を振り返り見ると、音楽の喜びは「家庭演奏会」の規模で共有され、家庭レベルでの音楽の楽しみと喜びを出発点としたということがわかります。
19世紀の終わり頃からようやく世界的に現在の演奏会スタイルが本格化し、定着したのです。公開演奏会の規模の拡大と音楽の普及、商業化といった20世紀的な常識を抱いて、モーツァルトの時代をみることはできません。
モーツアルトの音楽を家庭演奏会に参加しているような気持ちで、もう一度聴いてみるのも面白いかもしれません。そうすると、モーツァルトは何よりも偉大な家庭人であったということに気付くでしょう。