芸術と家庭・・・音楽編(24)local_offer芸術と家庭
吉川鶴生
夫婦で日記を書いたシューマンとクララ
トロイメライで夢を見る
ロベルト・シューマン(1810~1856)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家です。ベートーヴェンやシューベルトの後継者的立場で、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残しました。特にピアノ曲と歌曲において、その評価は高く、多くの名作があります。「子供の情景」という曲集の中に含まれる名曲「トロイメライ」(ドイツ語で「夢」の意味)の音色にうっとりと聴きほれ、夢を見るような思いになった人は多いでしょう。いかにもロマン派の曲といった感じです。
シューマンは裕福な家庭に生まれましたが、16歳になった年、姉と父が他界してしまいます。安定した生活を望む母親の希望に従い、ライプツィヒ大学の法科に進みますが、音楽家になるという夢を捨てきれなかった彼は、途中でピアニストをめざしてフリードリヒ・ヴィーク(1785~1873)に師事するようになりました。しかし、指の故障によってピアニストを断念せざるを得なくなり、作曲家の道を志すこととなります。
シューマンは文学に対する造詣も深かったため、彼の芸術は音楽と文学の融合とでも言うべき世界を作り上げています。特に、彼はジャン・パウル、シラー、ゲーテ、ヘルダーリン、ホフマンらの作品に親しみました。
その中でもシューマンに特に大きな影響を与えたのは、ドイツ・ロマン派ジャン・パウルの空想に満ちた文学的スタイルでした。彼はジャン・パウルの作品を熱心に精読し、その傾倒度合いは尋常ではなかったと言われています。
文学に関心を持っていただけでなく、自身も文才があったシューマンは、1834年に「新音楽時報」を創刊するなど、音楽評論の分野においても名を馳せることとなります。
シューマンの音楽世界の特徴
シューマンは1839年にピアノ独奏曲「フモレスケ」(Humoreske)を作曲しました。作曲中、婚約者だったクララに書き送った手紙を読むと、彼が彼女への溢れ出る思いをこの曲に込めていたことが分かります。それと共に、この曲にはシューマンの作曲技法を理解するためのヒントがあるのです。「フモレスケ」は様々な気分が入れ代わり立ち代わり移ろうように現れる不思議な曲です。主題の数が多く、何かつかみどころがないような印象さえ与えます。シューマンは、こうした曲の性質について次のように述べています。
「私はこの世で起きるあらゆることから影響を受けて(中略)その気持ちを表現したいと思っていたところ、音楽の中で表すという方法を見つけたのです。そのため私の楽曲は時に理解しがたいですが、それは音楽が色々な興味と結び付けられているからなのです」
彼の楽曲が「時に理解しがたい」のは、色々な気分の移ろいや趣味を、多くの主題、多くの形式で表現しようとしたからです。文学的な情緒の多彩さが、音に変換されるとき主題上、形式上の複雑さを生んだと言えます。
シューマンの結婚と家庭生活
シューマンは師であるヴィークの娘クララ(1819~1896)と愛し合いましたが、ヴィークは猛烈に反対しました。ヴィークの妨害は執拗を極めましたが、困難を乗り越え、最終的に二人は結婚するに至りました。
クララは、当時、ヨーロッパ中に名を馳せる当代一流の名ピアニストでした。彼女の存在がシューマンの創作活動に多大な影響を与えたことは間違いありません。二人は強い絆で結ばれた夫婦となり、四男四女の子宝に恵まれました。主婦とピアニストを両立させながら懸命に働いたクララは、本当によく夫を支えた良妻賢母であったと言えます。
シューマンとクララは共に幼いころから日記を書いていましたが、結婚後はそれぞれの日記を合わせて一つにしました。日々、お互いに起きたことを報告し合いながら過ごし、日曜日には1週間分の日記を朗読して反省したり、コメントをつけ合ったりしたそうですから、本当に気持ちを共有しようと努めていたのでしょう。
しかし、子供が8人もいると、生活も簡単ではありません。シューマンの収入だけでは生活費が不足するようになり、クララは演奏旅行の回数を増やし、家計を支えなければならなくなりました。当時、クララのピアニストとしての名声はシューマン以上であったため、時に彼は屈辱を感じることもあったようです。しかし、そのような特殊な状況に対して、彼は「人はすべてを所有することなどできはしない。結局のところ、大切なのは幸せをずっと永続きさせることである。お互いに所有しあい、心の底から理解し、愛し合ってこそ、私たちは共に幸せになれるのだ」と述べています。シューマン夫妻は互いに補い合う理想の夫婦であり、まさに神様が合わせた二人であったのだと思います。