芸術と家庭・・・絵画編(25)local_offer芸術と家庭
岸田泰雅
宮廷画家として長男の責務を全う
フェリペ4世に愛されたベラスケス
ディエゴ・ベラスケス(1599~1660)は、スペイン南部の都市セビーリャで生まれた非常に有名な画家です。彼は、11歳の頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェコに弟子入りしました。7人兄弟の長男だった彼は、何をやっても優等生でしたが、一番熱心に取り組んだのは、絵を描くことでした。
パチェコは著名な画家であると同時に芸術研究家としても知られ、彼の持つスタジオでベラスケスは訓練を受けました。1618年、ベラスケスが19歳のとき、パチェコの娘フアナと結婚し、2人の娘が生まれます。パチェコは彼の師匠であるだけでなく、義父でもあったのです。
ベラスケスは、パチェコの下で様々な知識を吸収しながら、技術を磨いていきました。彼は、最初の重要な作品である「マギの礼拝」を弱冠20歳のときに完成させました。この絵は好評を博し、その後、仕事の依頼が増えることとなりました。
1623年、ベラスケスはマドリッドを訪れた際、国王フェリペ4世の要請を受け、肖像画を描きました。フェリペ4世は彼の作品を見てその才能に感銘を受けました。その後、ベラスケスは公任の宮廷画家となり、王室や宮廷にいる人々の肖像画を作成する責任を負いました。
彼の肖像画は非常に写実的であり、細部にも細心の注意を払っていました。その技術が高く評価され、当時最も人気のある画家の一人として名を馳せました。彼は長年にわたり王室のために働き続け、史上最高の絵画の一つとまで言われる「ラス・メニーナス」など、秀逸な作品を制作しました。それらの多くが、プラド美術館に所蔵されています。
しかし、仕事における成功とは対照的に、プライベートでは控えめな暮らしをしたため、彼の私生活についてはほとんど知られていません。近年の研究では、彼の父方はコンベルソ(改宗ユダヤ人=ユダヤ教からキリスト教への改宗)の家系である可能性が高いとされています。父方の祖父ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバはポルトガルからセビーリャに移住していますが、当時多くのコンベルソがポルトガルから移住し、シルバなどの名を名乗っていたことが明らかにされているからです。
卵を調理する老女と少年
ベラスケスの初期の作品に、「卵を調理する老女と少年」(スコットランド国立美術館収蔵)があります。この作品は、バロック期の代表的画家であるカラヴァッジョのような明暗対比の技法で陰翳の背景を活かしながら、老女と少年の表情を写実的にくっきりと照らし出しています。
左から強い光が当てられた老女と調理中の卵、食器類は明るく、逆に光が背後から当たる少年の顔には暗い影の描写があります。卵や食器類なども非常にリアルに描かれており、ベラスケスの写実精神が文句なく一流であることが分かります。名画の誉れ高い作品であることは誰も否定できないでしょう。
この画の設定が、調理する祖母と、脇でそれを手伝う孫の姿であることは確かなようです。しかし、モデルを演じる老女と少年が実際の祖母と孫であるかどうかは分かりません。
タイトルに「卵を調理する老女と少年」とあるのに引っ張られて、祖母と孫と見てしまいがちですが、実は、調理する女性はベラスケスの母であり、少年はベラスケスの弟であるという見方もあります。もしかすると、こちらの方が正しいのかもしれません。
少年は、左手にワインを持っており、右手には大きな瓜を抱えています。スペインは、今でもよく卵を揚げて食べる習慣がありますが、この時代からその食習慣は変わらず続いていることが分かります。
ベラスケスの結婚および家庭
フェリペ4世によって宮廷画家に取り立てられたベラスケスは、大いに出世した立場だと言えるでしょう。彼は7人兄弟の長男ですから、家族の面倒を見なければならないという責任感を持っていたと推測されます。もし彼がユダヤ系であったとすれば、家族を大切にするユダヤの伝統を守りつつ、謹厳かつ誠実に仕事に取り組んだのだろうと思います。
ベラスケスの師匠であったパチェコの娘フアナと結婚して二人の娘を儲け、誠実な家庭生活を送り、仕事の面でも宮廷画家としてスペインの王宮を離れず、死を迎えるまで忠実に王に侍り仕えました。誠実な彼の人生をきっと神は祝福されたことでしょう。