日本人のこころ〈91〉local_offer日本人のこころ
ジャーナリスト 高嶋 久
吉田兼好『徒然草』
高名の木登り
「つれづれなるままに、日ぐらし硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂(ぐる)ほしけれ」(これといった用事もないので、一日中机に向かい、心をよぎる気まぐれなことを、あてもなく書いていくと、なんだか不思議な気持ちになってくる)
で始まる『徒然草』は、鎌倉時代末期に成立したとされるエッセイ集で日本三大随筆の一つ。作者は吉田兼好で本名は卜部(うらべ)兼好、一般的には兼好法師と呼ばれ、京都の吉田神社の神職の子として生まれた歌人で古典学者です。全部で243段あり、世俗批判からユーモア、死生観にいたるまで多様で面白く読めます。
私が印象深く覚えているのは第109段の「高名の木登り」の話。
「高名の木登りといひし男、人をおきてて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危ふく見えしほどには言ふこともなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりになりて、『過ちすな。心して降りよ』と言葉をかけ侍りしを、『かばかりになりては、飛び降るるとも降りなむ。いかにかく言ふぞ』と申し侍りしかば、『そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ちは、やすき所になりて、必ず仕(つかまつ)ることに候ふ』と言ふ」
本人が危険だと思っている時には放っておいても気を付けるので、あまり事故は起こらないが、安心して気が緩むとすきが生まれて事故が起こりやすい、という今でも通用する話です。
私は23歳の時、深夜に舞鶴から京都市内に車で帰る途中、市内に入る長い下り坂のところで居眠り運転をしたため、翌朝、気が付けば病院のベッドの上ということがありました。しばらくは必死で眠気と闘っていたのですが、あと少しとなって安心し、気が緩んでしまったのです。車は全損だったものの人身事故にはならず、「死ななくてよかったね」と言われて、本当にその通りだなと思いました。以後、眠気を催すと早めに仮眠をとるようにしています。
人が文章を書くのは、何か意味があると思うからで、兼好法師も似たような体験をしたのかもしれません。
同じ心ならむ人
読み返して共感したのは第12段の「同じ心ならむ人」。
「同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰さまむこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらむと向かひゐたらむは、独りある心地やせむ。…まめやかの心の友には、遥かに隔たるところのありぬべきぞわびしきや」
心の赴くままに好きなことをして、楽しく暮らしたいと思った時に、一番欲しいのは話の合う友です。ところが兼好は、そんな心の友は、心の中にしかいないよ、と突き放しています。これも兼好の実感だったのでしょう。
私も、これは面白いと思ったことを妻に話しても、たいていは「ふ~ん」と気のない返事。定年退職して時間ができ、妻と喫茶店に行っても、あまり話すことはなかった、という話はよく聞きます。子供のことなど共通の話題はあるのですが、それぞれが好きな話になると、「独りある心地やせむ」となりがちです。
ひと月前、学生時代の女友達から57年ぶりに便りがありました。病気をして先が短いかもしれないので一度会いたいというのです。恐る恐る妻に見せ、了解を得て会いに行きました。待ち合わせの駅に車でやってきた彼女は、白髪の老婦人になっていましたが、笑顔は19歳のまま。10年前に亡くなったご主人が残した畑の仕事帰りによく寄るという、学食風の店で朝食をとりながら、昔話をしました。
誕生日は私より7日早いお姉さんで、「習いたてのドイツ語で手紙を書いたら、赤ペンで添削して返ってきたね」と言うと、「覚えてないわ」。「嵐山に行くのに京都駅で待ち合わせた時、迷子にならないようにと赤いブラウスを着てきたね」と言うと、それも記憶にない。彼女が覚えていたのは、寮から下宿への引っ越しを、私がリヤカーで手伝ったことで、それはこちらが覚えていませんでした。青春とは独りよがりな時代なのです。
彼女は近松門左衛門の研究で国文科を卒業し、高校の国語教師を15年。母の介護で退職し、その後、私立高校の非常勤講師を8年したとのこと。夏には花火で賑わうという川辺を見下ろすお店で、カレーを食べながら57年の人生に耳を傾けました。
「この一冊しかないから」と預かったご主人の遺稿集を読むと、学生時代、寮の管理をめぐる大学当局との争いが書かれていました。私も同じような体験があるので、似た者同士だったのでしょう。
しかし、彼女となら文学の話で楽しかったかもしれないというのは一方的な思い込みで、兼好さんのように「心の友は、心の中にしかいない」と考える方が健全なのでしょう。帰宅して、彼女よりかなり健康的な妻を見て、「やっぱりきみでよかったよ」と言ったのは本音。もっとも、比較していい話ではありませんが…。