機関誌「真の家庭」publication

APTF 公式サイト機関誌「真の家庭」芸術と家庭・・・音楽編(30)

芸術と家庭・・・音楽編(30)local_offer

吉川鶴生

歌い込まれた日本の原風景

日本の唱歌・童謡

明治以降の日本は、世界の列強と並ぶために近代化を急ぎ、政治や産業の面だけでなく、文化の面でも欧米から多くを学び取る努力をしています。政府は近代教育制度を導入し、学校教育の一環として音楽教育にも力を入れました。明治5年(1872年)に施行された「学制」では、小学校は「唱歌」、中学校は「奏楽」として音楽が正式な教科として位置づけられました。「唱歌」という言葉は、雅楽の楽器の旋律を口で歌うことを指していましたが、明治初期にSingingやSongの訳語としてあてられ、音楽教科の名称となったものです。しかし、その当時は指導者も指導法も確立されていなかったため、「当分之(これ)を欠く」とただし書きがされていました。

明治12年(1879年)、政府の文部省に学校の音楽教育を研究する「音楽取調掛(とりしらべがかり)」(後の東京芸術大学音楽学部)が設置されます。アメリカで西洋の音楽教育を学んだ伊沢修二が担当官となり、本格的に「唱歌」の普及が始まりました。そして、明治14年(1881年)に最初の唱歌集『小学唱歌集』が編纂されたのです。

初期の唱歌は、西洋の曲のメロディーに日本語の歌詞をつけたものが多く作られました。代表的なものとしてはお別れの歌として定番の「蛍の光」で、スコットランド民謡の曲がもとになっています。明治中期から後期になると、滝廉太郎の「荒城の月」「箱根八里」など、日本人による名曲が生み出されていきました。唱歌は学校教育を通じて全国的に広まりましたが、子供たちに道徳や愛国心を教えることを目的とした説教くさい部分もありました。

大正時代になると、「大正デモクラシー」の時代背景と相まって子供の文化や教育にも新しい考え方が生まれてきます。そんな中で作られていったのが「童謡」です。唱歌が教育・道徳的側面に重きを置きすぎて、子供の純粋な感性や心情に合わない面があるという問題意識が生まれていったのです。

その中心的な人物が鈴木三重吉でした。彼は大正7年(1918年)に児童文学雑誌『赤い鳥』を創刊します。子供向けの詩や童話、童謡を掲載して、学校教育の唱歌に欠けている豊かな感性や想像力を育てることを目指していました。これに共鳴した詩人の北原白秋や泉鏡花などの作家や、作曲家の山田耕筰らが感情豊かな曲を作り、童謡の一大隆盛期が沸き起こることになります。この動きは「赤い鳥」童謡運動などと呼ばれました。

活躍した作詞家・作曲家たち

この時期作曲された代表的な童謡には、「赤とんぼ」(三木露風作詞、山田耕筰作曲)や「かなりや」(西條八十作詞、成田為三作曲)、「赤い靴」(野口雨情作詞、本居長世作曲)などがあります。これらの童謡は、純粋な子供の世界を描き、芸術性が高く評価されました。

大正14年(1925年)にラジオ放送が始まると、番組内で童謡が頻繁に流されるようになります。昭和に入るとラジオやレコードなどのメディアを通して唱歌や童謡が広がり、全国の子供たちが同じ歌を歌うようになったのです。戦時中は再び、教育的・愛国的な歌が多く作られましたが、戦後は、より自由で情緒豊かな表現が主になっていきます。「ちいさい秋みつけた」(サトウ・ハチロー作詞、中田喜直作曲)、「ぞうさん」(まど・みちお作詞、團伊玖磨作曲)、「手のひらを太陽に」(やなせたかし作詞、いずみたく作曲)など、日常生活を表現したものや自然の美しさ、遊びの楽しさなど子供が共感しやすい童謡が生み出されていきました。

時代が下るにつれて唱歌と童謡の境界はあいまいになり、現在では共に日本の音楽文化の重要な一部となって、世代を超えて歌い継がれています。両者は、それぞれ異なる背景や特徴を持ちながらも、日本の芸術文化と教育に重要な役割を果たしてきたのです。

家族と故郷へのノスタルジア

明治、大正、昭和期の唱歌や童謡が、現在でも世代や時代環境を超えて歌い継がれているのは、日本の人々が生きてきた原風景、心象風景がそこに歌い込まれているからでしょう。ひと口に言って、それは「家族と故郷へのノスタルジア」が唱歌の中にあり、童謡の中に生きているからにほかなりません。音楽の素晴らしさを感じます。

【参考資料】「NHK日本のうたふるさとのうた100曲」:講談社(March 1, 1991 ) 「日本の童謡・唱歌をいつくしむ―歌詞に宿る日本人の心―」:東邦出版(Nov. 21, 2017 )「日本童謡唱歌全集」:ドレミ楽譜出版社(November 1, 2014 )