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誌上講演会

大塚克己

「家庭の価値」その2

真の愛の二番目の条件は、「与えて忘れる」ことです。忘れてしまうことを通して、愛が永遠性を持つことになるのです。覚えていてはいけないのです。お母さんが子供にすべてを投入し、お父さんが汗水を流して一生懸命働いて、おしめを買った、ミルクを買った、離乳食を買った、服を買った…と、子供に買ってあげたすべてのレシートをとっておいたらどうでしょう。しかも丁寧に全部を大学ノートに貼り付けて「何年何月何日どのようにした」と、娘が嫁に行くときに「これがわたしたちの愛の証だ」と言ってそのレシートを見せたら、その娘が感動して愛を感じるのでしょうか。親の愛は忘れるがゆえに良いのです。与えても忘れてしまうことが、大きな課題になるのです。

真の愛である限りは、いつでも与えて忘れるのです。だから「ああ、与えていなかった」と思って、新しい気持ちで与え続けていくことができるのです。ところが人間は、なかなか忘れることが難しいのです。与えて忘れず、受けてすぐ忘れる(笑)。恩着せがましく、「ああしてやった、こうしてやった」と、ついつい言ってしまいます。「人間性がない」ということの典型が、「恩着せがましい」ということです。

神様は人間に愛する能力を与えられ、記憶する能力もお与えになりました。しかし、おもしろいことに神様は、人間に忘れる能力も与えられたのです。忘れることが重要なのです。愛して忘れ、与えて忘れることが重要なのです。そのように、与えて忘れることができる愛…。本当に相手を愛していたならば、与えてもまだ与え足りないと思って、与えても与えても与えても、また与えたいと思うのが、真の愛の条件の二番目です。

三番目の真の愛の条件が、「与えた相手が自分以上になることを願う」ことです。相手が自分以上になることを願うのです。これも親子関係に、最もよく現れます。お父さんが一生懸命に働き、お母さんが一生懸命世話をしてあげて子供に投入し、子供を一生懸命育てたとします。やがて子供が有名な大学へ入り、大学の教授になった、政治家になった…と、立派な人間になって社会に尽くしているとすれば、どれほど誉れでしょうか。

ご夫婦が二人一緒にこの会場に来ているとして、自分は立派なスーツを着ているのに奥様がボロボロの服だったらどうでしょうか?「おれだけ格好よければいいんだ」と言うようでは、真の夫になれません。自分だけパリっとした服装をして妻がボロボロ、あるいは逆に妻がきれいな格好で夫がクシャクシャ…、やはりこれも困りますね。お互いがお互いのことを考えて、相手が自分以上に立派になるように働いてあげることが、真の愛の条件になるのです。

「そのような愛で、夫婦が家庭を出発するならどうなるのか」と考えると、そのような夫婦は、決して自分たちのことだけを考えるようには成り得ないのです。「わたしたちがこうして二人でいられるのも、周りの方々のおかげだ」、あるいは「ご先祖様のおかげだ」というようになります。すなわち、真の愛の四番目の条件が「全体を優先すること」です。自然にそうなるのです。

「自分たちだけが幸せで、他は皆、不幸であってもよい」というようにはなりません。そういう夫婦は必ず、公のこと、全体のこと、周りのことを考えて、そのために生き合うような夫婦になるはずです。お互いがお互いのために生きているのですから。そういう二人が一つになったら、その夫婦は周りのために生きるようになります。したがって、全体を優先し、公的なものを優先し、周りの方々の幸せのために奉仕する夫婦になるのです。

真の愛の五番目の条件は、「時間と空間を超越する」ということです。より大きなもの、全体のものを優先するようになれば、必ずご先祖様にまで想いが至るのです。自分の夫を愛していれば、夫が生まれてきた背景まで、自然に気持ちがいくものです。自分の夫を本当に愛していたならば、その夫を生んだお父さんお母さんを尊敬しないはずがありません。「よく生んでくださいました」と感謝する想いが、そのご両親にいくはずでしょう。そうすれば、その両親のさらに両親、おじいちゃんおばあちゃんにまで尊敬の気持ちがいきます。そのようにして、自然にご先祖様に対しても想いがいくはずです。

親孝行の「孝」という文字は、そういう意味なのです。むかし、二千何百年も前に、孔子が儒教を成立させる以前から、儒家といわれる人々がいました。この人々は、主にお葬式を執り行うことに長じていました。現代風に言えば、葬儀屋さんです。そのときのお葬式の伝統や形態が、いまの日本の仏教や神道に多く残っています。

その儒家の人々が、亡くなった人を祀る、ご先祖様を祀るという宗教的な儀式が、どのようにして道徳上の「孝」という概念にまで成長していったのかをまとめたのが、孔子だったのです。「孝」というと、日本では生きている自分の両親に孝養を尽くすことですが、韓国、あるいは中国で昔の伝統が残っている所では、自分の両親に尽くすだけではなく、その血統に対しても孝養を尽くすのが、「孝」というものの原点になっています。しかも、自分のお墓を守ってくれるのは男子なので、男子を産むという子孫に対する想いが、「孝」ということになりました。

このように「孝」という概念は、ご先祖様、両親、子孫という三代を連ねて、時間と空間を超えて為に生きること、尽くすこと、お祀りをすることだったのです。日本には、残念ながら真ん中(両親)だけがきてしまいました。しかし、両親に対する想いも突き詰めていけば、ご先祖様を大事にするように、自然になっていくのです。

そういう意味において、自分自身の家庭が真の愛の家庭、真の夫婦であるとするならば、紛れもなく自分自身のご先祖様を大切にするでしょう。お墓を守るでしょう。お墓の掃除をするでしょう。お花は欠かさないでしょう。そして、子供たちや子孫に対する教育も、しっかりとするようになると思うのです。そう考えると、真の愛であればあるほどに、時間と空間を超えるような幅の広がりをもつのです。

このご先祖様や子孫に対する想いは、アジアだけのものかというと、そうではありません。旧約聖書にも、あるいは他の宗教にもいくらでもそういう事例をみることができます。旧約聖書にあるモーセの十戒は「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」から始まり、神様に関する四つの戒め、そして人間に関する六つの戒めが出てきます。その最初が、「汝の父母を敬え」です。日本語では「敬え」ですが、古代ヘブライ語では「汝の父母を重たくしろ」と書いてあります。「重たくしろ」とは、「重く扱え、貴重な存在として扱え」という意味ではなく、「体重を重くしろ」と言っているのです。

日本にも楢山節考という話にもあるように、働けなくなった老人を山に捨てていたのです。食物を与えないで、自然死させたのです。当時のオリエントではそういう慣習が大半であったのに、十戒では「それはいけない」と言っているわけです。たとえ働けなくなった両親であったとしても食物を与えて、歯が抜けて食べられなくなったらお粥にしてあげて、「両親の体重が減らないようにしてあげなさい」というのです。その現実的な戒めが「汝の父母を敬え」ということなのです。そのように食事を与え、よく尽くすことを通して、親孝行を教えたのです。どの民族、どの国でも、父母を大切にする教えは、いかなる宗教においてもあるものなのです。

しかし、残念ながら現在のキリスト教には、それがなくなってしまいました。それは、イエス・キリストが独身で亡くなってしまったことが、最大の原因です。旧約聖書には、親孝行の話が山のようにあります。しかし、新約聖書になると、創始者であるイエス・キリストが独身でしたので、親孝行の世界がまったく書いてありません。夫婦愛もなかなか出てきません。そういう観点でみると、旧約聖書が非常にいきいきして、おもしろいのです。 (続く)