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誌上講演会

大塚克己

「家庭の価値」その4

最後に、真の愛の条件の第六が、「犠牲を伴う」ということです。自分自身の中に「犠牲になった」という負担感がない限り、愛を感じません。その負担感、「犠牲になった」という思いがうれしいのです。何かおもしろいのです。そういう気持ちが、真の愛の大きな条件なのです。

このようなことを、こんな高い所から、さも分かったようにお話ししているわたしも、まだまだ修業の身であり、その途上であります。われわれ夫婦も、「まだまだ足りないなあ」と思うのです。つい先日、わたしがご飯を待っていましたら、「あなたはいいわねえ、ご飯が自動的に出てくると思っていて」と言うのです(笑)。ご飯を食べ終わって、彼女が皿を洗いながら、「あなたはいいわねえ、わが家には自動皿洗い機はないのよ」(笑)。「この前、洗ったじゃないか」と、ついついわたしも反論してしまいました。

己が未熟さをつくづくと感じているのです。夫は、何かやってあげたこと、年に2、3回しかしていないことを、さも毎日しているかのように言います。妻は、やってもらったことを、さっさと忘れる(笑)。夫が年に2、3回、彗星に当たったか、隕石が落ちてきたかのように稀なことであったとしても、一年中やってくれていることのように思いましょう。きょうの講演のテープを妻に送っていただきたいと思います(笑)。「お父さん、この前は皿を洗ってくれて本当にありがとう。あなたの洗ってくれた皿は、あちらこちらに洗い残しがあったけれど、輝いていたわ〜」などと言えば、夫は毎日タワシでごしごしと洗うようになるのです(笑)。「やってくれ」と言うよりは、ほめることによって、感謝することによって、相手がそのように変わっていくのです。それが、妻の知恵というものです(笑)。

ものすごく自己正当化して講演しているような気がして、話しながら心が痛くなってきたのでこの辺で終わりますが、このような真の愛によって男女が夫婦になり、初夜を迎える一瞬が、最も貴重な時間なのです。それまでの期間、健康のために、真の愛のために、若い男女は純潔を守る必要があるのです。その一瞬こそ、人生の中で最も輝ける時であるのですから、その一瞬をけがしてはいけません。その一瞬の時に、別の男性が頭をよぎってはいけません。その一瞬の時に、別の女性との過去の経験がよぎってはいけません。絶対にそうならないように、その最も大切な初夜というもの、夫婦の愛の出発を、最も輝けるものとして守るために、純潔運動が自然に必要となるのです。

そして、純潔を守って結婚した者は、生涯純潔を守れるようになるでしょう。わたしもずっと守り続けていきたいと思います。女性だけが貞節を守る、男性は自由でよい、というわけにはいきません。このようなことが、真の家庭運動なのです。

わたしは、「日本はいつの頃から純潔を考えるようになったのかなあ」と、歴史を調べてみました。まだ仏教も入っていない時代は、どうだったのだろうか。万葉の時代は、どうだったのだろうか。仏教を入れて、どうなったのだろうか。儒教を入れて、どうなったのだろうか。いろいろと調べてみました。

実は、日本人が純潔を考えるようになった時代は、古くはありませんでした。明治維新以降のことです。それでも、「純潔を守った」という歴史は、残念ながらこの国にはないのです。明治6年まで、「妾」という項目が戸籍に残っていました。

ヨーロッパの船が、中国の女性を大量に載せて出帆しました。それが和歌山沖で座礁しました。その女性たちを、日本人が救いました。その女性たちは、売春婦として南米に売られる人たちだったのです。いわゆる人身売買です。

明治時代の日本人は、それを非難しました。しかし残念ながら、自分たちの戸籍にも、「妾」という項目があったのです。ですから、反撃されることになりました。その結果、「妾」の項目を外しました。しかし、実態は残ったのです。

やがて、売春防止法が制定されて、男女が完全に平等になったのは、戦後のことです。37名の女性が国会議員に当選しました。しかし、次の選挙で大半の女性が落選してしまいました。まだ女性の政治意識や能力というものが、社会的によく訓練されていない、評価もされていない時代でした。

その後、次第に男女が平等になり、やがて日本社会全体で純潔が守られ、家庭の大切さが訴えられるかなあ・・・と思っていましたら、逆の方向に行ってしまいました。フリーセックスやジェンダーフリーという考え方が登場して、社会がめちゃくちゃになってしまいました。

ジェンダーフリーとは、「男性、女性という性の差別はなくさなければならない」というものです。「なぜ男の子は青い服で、女の子はピンクなのだ。男の子が生まれたら、『あら可愛いわねえ、はいピンク』と言ってもよいではないか」というのです。「なぜ小学校に行くとき、男の子は黒のランドセルで、女の子は赤なのだ。反対でもよいではないか」というわけです。このような考え方が行き着いた先が、「男性、女性というものは生まれながらにして決まっているものではなく、社会的な環境、教育によって決められる」というものです。

極端ですねえ。男の子が生まれても、女の子として育てれば、女性になっていくというのです。なりますか?(笑)わたしは養豚場にいって「雄を雌として育てたら、豚は雌になりますか」と聞いてみたら、「ならん」と言われました(笑)。それはそうでしょう。極端な考え方なのです。

しかし、「男性、女性という差別をなくさなければならない」という考えは広がっていきました。ハリウッドの映画を見ると、女性が戦うシーンばかりです。女性が機関銃でバンバンと、両手で撃っています。申し訳ありませんが、女性は機関銃を撃てません。連射するマシンガンなどを撃つと、一回引き金を引くとその反動で銃口が振られるので、弾が横に流れ、周りの味方まで皆殺しにしてしまいます(笑)。女性が両手で機関銃を撃つなどということは、できません。映画だからできるのです。

ところが、「ラスト・サムライ」という映画の中では、女性がいっさい戦わず、男性が帰ってくるのをじっと待っているシーンがあります。あれがアメリカ人にウケたのです。日本女性の奥ゆかしさ、日本の美意識、生命観といったものが、欧米人を魅了しました。戦う女性ではなく、夫を支え、じっと忍耐していく姿です。今のわたしたちからみれば古いことではあるでしょうが、欧米の人たちはそこに良いものを多く見いだしたのでしょう。

「女性が男性になる、男性が女性になる」というジェンダーフリーの考え方が、さらには男同士が結婚するということまで生み出します。わたしと山本さんが鳥取の市役所に婚姻届を出しに行くということです(笑)。ぞっとします。話しただけで寒気がします(笑)。しかし、アメリカではそのようになっているのです。有名なロック歌手や映画俳優が、そのようなことをするものですから、社会の風潮になってしまうのです。

そのようなことを考えますと、日本の社会も大きな転換期にきていると思うのです。安倍内閣では教育の再生を訴え、美しい国・日本と言っておられますが、これらの目標は政治家や教育に携わる者だけが成し遂げるものではありません。教育の原点は家庭にあるわけですので、真の愛ということに焦点を当てて、家庭において親が子供に対してはっきりと教えてあげられるような、伝えられるような教育の原点を決めなければなりません。わたしたち親は、子供の教育を学校に任せすぎたのではないでしょうか。家庭教育というものをもう一度、取り戻していかなければなりません。 (終わり)