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誌上講演会

真の家庭運動推進協議会会長 大塚克己

真の愛を私から世界へ

人は愛によって幸せになる

人間を最高に幸せにするものは何だろうかと考えてみますと、それは間違いなく愛だと私は思います。私はおいしい料理が大好きですが、どんなにおいしい食事を毎日食べても、愛し合わない者同士、憎み合った者同士だと、おいしくはありません。おいしいと感じる条件はおいしい食事ではなく、雰囲気が合うことです。

愛し合う者同士だと、たとえまずいおかずであったとしても、おいしく食べられます。愛し合う若い二人は、梅干一つのおかずを分けて食べてもおいしいのです。反対に、憎み合う者同士だと、どんなに高価な料理でもおいしくはありません。

大きな家に住んでいる人は幸せでしょうか。私は大きな家に行って、何が幸せだろうか考えました。まず掃除が大変です。小さな家は掃除が簡単で、必要な物も手を伸ばせば取れます。その人の暮らし方に合わせた大きさの家が、快適なのです。

何より、どんなに大きな家に住んでいても、愛する妻や子がいなければ寂しいだろうなと思います。妻が子供を連れて3日間、家を留守にしたことがありますが、私は一人の自由を味わうよりも、一人になるとこんなに寂しいのだなあと思いました。私が先に死んで妻を一人残すと、妻はこんなに寂しい思いをするのかという気になります。人は大きな家に住むよりも、小さな家に愛し合う者同士で住んだほうが楽しいかもしれません。

人間が最高の幸せをつかむのは愛によってです。逆に、その愛が裏切られたとき、人間は最悪の不幸を味わいます。例えば、夫が浮気をしたら妻は恨むでしょう。私という者がいるのになぜ浮気などするのよと、包丁を手に持って迫ります。愛による恨みを残した場合、人間は最悪の不幸を経験するのです。そうなると、私たちを幸せにしてくれる愛をどうすればつかむことができるか、真剣に考えざるを得なくなります。

永遠、絶対を願うのが愛

愛について考えると、愛し合う者同士でいたときに、その喜びや幸せが一瞬でいいと思うか、ずっと続いてほしいと思うか、どうでしょう。誰しも、愛は自動的にずっと続いてほしいと思います。

愛し合う者が目を見つめ合い、互いに「幸せだね」と感じているとき、あと1時間だけ幸せでいいと思うでしょうか。本当の愛であればあるほど、そこから得る喜びはずっと続いてほしいと思うものです。ですから、愛には永遠性を求める性質があると言えます。

また男女の愛を考えると、それが真の愛であるならば、1対1の関係を願うようになると思いませんか。「私はあなたを愛しているのよ。でもあなたと同じくらい、あの人も、この人も愛しているの」となると真の愛とは言えないでしょう。愛というものは、唯一なるもの、永遠なるものという二つの性質を含んでいるのです。

結婚式の祝辞で「愛は一生だけでいい」とは誰も言いません。死んでからも続いてほしいと思っているからです。そう考えると、本当に人間を幸せにしてくれるのは、変わらない愛、ずっと続く愛だと分かります。一人の女性と一人の男性の中に無限の神秘を含んでいるのが、人間に最高の喜びを与える愛なのです。そういう真の愛は永遠性、絶対性、唯一性を求めます。

無条件で与える愛を

真の愛とはどんな愛だろうかとたどってみると、次のような条件が必要だと思われます。第一に、与える愛であることです。奉仕する愛、ために生きる愛、尽くす愛が真の愛です。相手から奪うような愛は真の愛とはいえません。「あなたを愛しています。だからこれをください」というのは愛ではありません。無条件で与える、相手のために尽くす、相手に喜びを与えようとするのが真の愛の根本条件なのです。

夫婦関係などでは、それがどうにもうまくいきません。仕事で疲れて帰ってきた夫には、無意識のうちに「妻に慰めてもらいたい」という思いがあります。ところが妻のほうは、子育てや老親の介護、家事などで疲れ果て、「この苦労を分かってほしい」と思って夫の帰りを待っているのです。そんな二人が夕方6時に玄関で会うとどうなると思いますか。

夫は妻の異様な雰囲気を感じて、「慰めを求めるどころではない、冷たい女性だな」と思い、妻は何も聞いてくれない夫に、「私の話を少しも聞いてくれない、事情を分かってくれない、自分勝手な男性だわ」と思います。そんなやりとりは多かれ少なかれ、どなたも経験したことがあるでしょう。

夫はどんなに仕事で疲れていても、家に帰ると、妻を愛する気持ちを顔一杯に出さなければなりません。妻はどんなに事情を抱えていても、夫を愛したい、慰めたい、元気付けたいと思って迎えなければなりません。互いにその努力が足りないと、夫婦喧嘩をすることになってしまいます。

人はある異性が好きになると、その人に自分を好きになってほしいと思うようになります。男女間のそうした「限りなく奪う愛」に気づくと、純粋な人は自己矛盾に悩んでしまいます。それは、愛に好みが混在しているからです。好みは基本的に自己中心的ですから、それに影響されて愛も自己中心になってしまいます。それでは真の愛にはなりません。

桂三枝さんの「新婚さんいらっしゃい!」というテレビ番組を見ていて爆笑したことがあります。桂さんに「好きになったきっかけは」と聞かれ、「風になびいた彼女の黒髪がきれいだったので、好きになりました」と答えた夫がいたからです。でも、妻の黒髪はいつまでもあるものではありません。白髪になったり、抜けてしまったりしたらどうするのでしょう。愛は髪と共に去るのでしょうか。

人を愛するにも理由があります。それが髪の毛だったら、髪の毛が失われると愛は消えてしまいます。かっこよい肉体だったら、中年になると自然に失われていきます。胸にあった筋肉が、重力によって下のほうに落ちていき、お腹の周りにたまります。肉体的な条件はすべて変わるのです。愛の理由を形に求めたら、永遠な愛などありえません。形に関係なく与える愛であってこそ真の愛なのです。

与えて忘れる愛の人に

第二の条件はもっと難しいもので、与えて忘れる愛ということです。ところが人間は、何か与えると、それを忘れられません。逆に、受けたことはすぐに忘れてしまいます。分かっていても、ついそうなってしまうのです。

わが家の台所で食器を洗っていた妻が、「あなたはいいわね、食べるだけで。うちには自動食器洗い機がないのよ」と言ったことがあります。それを聞いて私は、言わなければいいのに「この前、洗ったじゃないか」と言い返しました。夫にしてもらったことは、妻の記憶からすぐに消えてしまい、夫は一度や二度のことをさも毎日のことのように言います。その反対だったらいいだろうと思うのですが、これが難しい。互いにしてもらったことに感謝すると、またしてもらえるのですが、つい小言を言うので、気まずくなってしまいます。与えて忘れ、受けて覚えればいいのに、与えて覚え、受けてすぐ忘れるのです。これでは夫婦関係も世の中もうまくいきません。

与えることと忘れることとのどちらが難しいかというと、忘れることのほうが難しいのです。結婚して家を出て行く娘に、これまでの養育でかかったお金の領収証をすべて張り付けたノートを見せても、親の愛の証にはなりません。親の愛は子供にどんなに与えても忘れるものだから、真の愛に近いのです。男女の愛もそうならなければなりません。真の愛から最も遠いのは恩着せがましいことで、そんな人は社会でも嫌われてしまいます。

私の家のモットーは、家に来た人は誰でも来て良かったと思ってお帰り頂くことです。宅配便の人でも同じで、「ありがとう」と心からの感謝を表すと喜んでくれます。夏には「こんなに暑くて大変でしょう」とひと言付け加えたりすると、人は愛のある言葉に励まされるのです。すると、時間外の配達も届けてくれたりします。

ある人にネクタイを差し上げたことがあります。彼はそのネクタイを大事にして、数年後に再会した時、下のほうが擦り切れたそのネクタイをしていました。私はそれを見て、私が差し上げたネクタイだと思い出し、びっくりしました。そこで新たに3本のネクタイを贈ったのです。そうしたくなるのが人間であり、そうしたやりとりで世の中はうまく回っているのです。

愛は与えて忘れることで永遠性を持つようになります。与えて覚えると、愛は次第に失われていくのです。そういう原則があることを知らなければなりません。

夫婦の愛もその原則どおりです。夫が外食をして帰りが遅くなり、真心こめて作った夕食が冷えてしまっても、妻は小言を言ったりしないようにしましょう。

相手が自分以上になるのを願う

真の愛の第三の条件は、愛を与えた相手が自分以上になるのを願うことです。

愛する妻がみすぼらしい服装だと夫は心が痛み、自分以上の服を買ってあげようと思うでしょう。愛する子供に自分以上の人間になってほしいというのが親の願いです。学力や仕事よりも幸福な人生において、自分より優れてほしいと思います。そのためなら、親はいくらでも犠牲になれるのです。

私の妻はぜん息の持病があり、家庭を持ったころ、発作で眠れない日が続いたことがあります。あまりにかわいそうなので、私は妻を抱きながら、「この人にはぜん息に堪える体力がありませんから、このぜん息を私にください」と神に祈ったことがあります。そのせいか、この年になってぜん息が出るようになりました。

ある時、私がせきをしながら息子にそんな話をしたところ、彼は「でも25年もたってるよ」と言って笑うのですが、そういうものなんです。相手の病気を自分にもらってでも、自分以上に幸せになってほしいと思うのが真の愛です。

政治の基本もそこにあると思います。政治家は、選挙民が自分よりも幸せになることを願うような人でなければなりません。国会議員を辞めたら財産はすべてなくなっていて、残っていたのは人々からの感謝だけだったというような人になるべきでしょう。任期を重ねるごとに財産が増えるような政治家は、本当の政治家とは言えません。公僕といわれる公務員も、自分を犠牲にして住民のために働くのが基本です。そんな人たちがいないと、社会はよくなっていきません。

先祖から子孫へつながる命

真の愛の第四の条件は、時間を超えることです。夫を愛していたら、自然に夫の両親に感謝するようになります。若い男女が愛し合うと、自然に二人の子供がほしいと思うようになります。

プロレスラーの高田延彦さんと結婚した女優の向井亜紀さんが、代理出産で子供を産んで話題になりました。私は彼女の「私の夫の遺伝子は素晴らしいから、それを残したかった」という言葉が印象的で、テレビを見ながら涙が流れました。

一人の人間の背後には、先祖からの長い命のつながりがあります。愛し合うと、その命を未来にもつなげたいと思うようになるのです。つまり、真の愛は時間を超えるのです。

最近、女性の平均出生率が下がってきて、少子化が進行しています。ダイエットをしている若い女性を見て思うのは、美しくなりたいという気持ちはいいのですが、女性の体は次の命を産むためにもあることを忘れてほしくありません。ですから、美しいと同時に健康な体になってほしい。愛は時間を超えて命をつなごうとするので、健康な体であることも、真の愛の大切な条件になるのです。

二つの愛が一つになると、その結果として、新しい生命が生まれます。その生命の連続が血統です。ですから、愛と生命と血統を別々に考えてはいけません。必ず一つのものとして見つめていかなければならないのです。

アメリカには男性同士、女性同士の結婚が許される州があるというので、驚いてしまいました。同性同士で結婚しても、新しい生命は生まれません。血統は途絶えてしまうので、真の愛とはならないのです。

欲望と愛、好き嫌いと愛を混同してはいけません。それは自分の心をよく見つめれば分かることです。真の愛は時間を超えるので、愛する人の過去の血統に感謝し、未来の血統を残そうと、自然に思うようになります。

家庭から国、世界へ

真の愛の第五の条件は、空間を超えることです。愛で包まれた二人は、二人だけで幸せであればいいとは思わないでしょう。自分たちの幸せを必ず分けてあげたくなるのです。自分の両親や兄弟、親戚の人たちはどうしているのか、心配になります。何かあると、出掛けて行って、その人たちに役立つことをしてあげたいと思う。愛とはそういうものなのです。

三世代同居の家庭で、両親が祖父母を大切にするのを見て育った子供は、家の外で転んだ老人を見ると、手助けしてあげようとするでしょう。自分の祖父の延長線上にその老人を見るからです。自分の家で体の悪い祖母の面倒を見てきた子供は、家の外でも老婦人が苦しんでいると、どうしたのと声を掛けるでしょう。

そのように、真の愛は家を飛び出し、地域や国を飛び出し、世界に広がっていくものです。ある空間にしか通用しないのが真の愛ではありません。

ですから、世界を犠牲にしても日本のためになればいいというような人は、真の愛国者にはなれないのです。日本を世界のために生きるようにするのが、本当の意味での愛国者でしょう。

内村鑑三は「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」と言いました。こういう素晴らしい魂を持った人が日本の歴史にもいたのです。

このように、真の愛には時間も空間も超えていくという性質があります。

喜んで犠牲になる

第六の条件は、必ず犠牲を伴うことです。誰かを愛すると、そこには犠牲が伴うようになります。言い換えると損になるのです。損を損と感じず、喜びに感じるのが犠牲です。喜んでその人のために犠牲になるのが、真の愛なのです。

100個のリンゴを持っている人が人に30個を上げるより、3個しか持っていない人が3個を上げるほうが犠牲は大きく、それだけ愛は深いといえます。愛の深さは与える人の犠牲の大きさによって決まります。余っているものを与えても愛にはならないのです。

このような真の愛の条件は、日本人が伝統的に培ってきた精神でもあります。明治天皇は日露戦争の最中に、「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらん」(四方の海にある国々はみな兄弟と思う世に、なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)と詠われました。明治神宮にその御製が大きく掲げられています。インド独立の父マハトマ・ガンディーも同じように言っています。イエス・キリストも釈迦もそうです。多くの聖人たちが、与えること、ために生きることを私たちに教えています。

小さなことから愛の実践を

真の愛の条件をもう一度確認しますと、与えること、忘れること、相手が自分以上になるのを願うこと、時間と空間を超えること、そして犠牲を伴うことです。

真の愛の人になろうと思ったら、大切なのは実践することです。あまり大きなことを考えると大変ですが、まずは夫婦が真の夫婦になり、家族や親戚が共に仲良く、一つになっていく道を考えましょう。その家庭、氏族が国に広がり、世界に及ぶようになると、地球は平和になっていきます。人類が宗教や民族、国の違いを超えて和合するところに、その道が開けるのです。

島国の日本はほぼ単一民族の国できましたが、国際化が進むにつれ、これからは多民族国家になる時代を迎えています。既に多くの外国人が日本に住んでいて、群馬県や静岡県などには日系を含むブラジル人など南米の人たちが多く、もっと前からは在日韓国・朝鮮人の人たちが暮らしています。

古代史によると、日本人の多くは朝鮮半島からやって来たといわれます。そのほか、北から渡って来た北方系、南から渡って来た南方系の人たちが混ざり合ったのが日本人でしょう。文化も多くは、先進的だった中国や朝鮮から日本に伝わってきました。

そんなお隣の国が、地理的には一番近いのに、不幸な歴史から、心理的には一番遠くなっています。真の愛の運動は、日本人が韓国・朝鮮の人たちと和合して一つになる運動にも発展していくものです。

私がお話しした内容は、ファミリーフェスティバルの創設者である文鮮明総裁のお考えを分かりやすくしたものにすぎません。その理念は、民族や国境を超えて世界中に広がり、今や世界中の人たちが日本に集まって祝祭を催すようになっています。その折には、皆さんが真の愛で迎えてくださるようにお願いします。