機関誌画像

誌上講演会

真の家庭運動推進協議会副会長 稲森一郎

家庭は究極のセーフティーネット

経済危機による生活の困窮

現在、生活保護を受けている人の数が急激な増加を見せています。1993年に生活保護者数は88万人余りでありましたが、2008年には160万人を超える数に上りました。約2倍に増加したわけです。生活保護を受けている人の世帯を見てみますと、「ひとり世帯」が1987年には59%であったのが、2007年には75%に増加しています。これは、生活保護者の多くが、孤独なひとり暮らしであることを意味します。

かつて貧困のセーフティーネットとして機能した「家族」もしくは「家庭」は今日の状況においては、すでに消滅しつつあるという感を否めません。失業しても大家族であれば、一人、二人が転がり込んで来ても、食べるには困りませんでした。何とかなったのです。現在は、失業して収入が途絶えると、路上居住やネットカフェ難民になってしまうという事態が発生し、家族も配偶者も仲間もいないさびしい境遇に置かれることが起きてしまいます。そうなると、社会から切断され、孤立化し、一旦、貧困に滑り落ちた状況から、なかなか抜け出せないという悪循環にはまり込んでしまいます。本当に悲しいことです。

今後、生活保護者数はますます増加する傾向にあると思われますが、そうなると、生活保護費の財政負担は、地方自治体を直撃することになります。ただでさえ、市町村や県の財政が破綻状況にある現実を考えますと、生活保護費のさらなる財政負担は地方自治体の台所事情を逼迫します。

今後、高齢化の進行、若者の非正規雇用率の上昇など、生活保護費の増加を余儀なくされる事態が十分に予想されます。そうかと言って、単純に、社会保障費を膨らませる「大きな政府」論に傾くことが果たして妥当かどうかは十分に検討を必要とします。

家庭の中に理想を求めよ

フランスの家族社会学者L・ルセールは「不確実な家族の社会」という言葉で、現代の家族を捉え、家族の作り出す諸現象から現代社会を見るという視点を大切にしています。そういう観点から、戦後、日本社会に起きた家族現象は何であったのか、それは社会にどういう影響を与えたのかを問うてみたいと思います。

戦後、アメリカ型の核家族(Nuclear Family)の社会、すなわち、夫婦のみで暮らす家庭、または夫婦と未婚の子供たちだけで暮らす家庭が広がったことは、日本社会にどんな影響をもたらしたのでしょうか。一言で言えば、社会の個人主義化が進んだということであると言ってよいでしょう。そのことをもう少し詳しく述べてみることにします。

大家族の煩わしさ、親子孫の三世代同居への抵抗感、三世代が相互に協力し合っていくことからの逃避など、戦後世代の多くの人々が核家族を求めた気持ちは分からないこともありませんが、それによって、いつしか、小さなまとまりの中で小さな幸せをつかんで生きるという意識構造が日本列島を覆い尽くし、結果として、日本社会が「助け合わない社会」へと、徐々に転落していった根本的な要因の一つを作ることになってしまった、それが核家族というシステムであると考えられます。

人間の心の変化を計量化することは簡単ではありませんが、一つの何らかの社会的なシステムやルールが、それが実施された一定の期間の中で、人間の心に何らかの変化をもたらしていくことは十分に考えられることです。

住宅事情も核家族を想定したものばかりの小型のものを量産して販売していきました。三世代を考えた大きめの住宅はほぼなかったと言っても過言ではありません。経済的には豊かになっていったように見えますが、人々の心は小さく、小さく縮んでしまい、心は貧しくなってしまいました。経済的に豊かな社会ほど心の貧しさがあると指摘したマザー・テレサの言葉は的を射たものです。

いつしか、日本列島には、「助け合わない社会」、「見て見ぬふりをする社会」という社会の個人主義化が蔓延し、心貧しき社会が出来上がってしまったのです。思いやる、助け合う、という心の豊かさはどこかへ消えてしまいました。こうなると社会全体がギスギスしていくようになります。社会の活性化が失われ、国家そのものも発展のエネルギーを失ってしまいます。

感謝して、喜んで、生き生きと生きる人間共同体があればこそ、社会も国家も発展すると言えます。「感謝して、喜んで、生き生きと生きる」というのは、開放系の心であり、「不平を漏らし、嫌々ながら、消極的に生きる」という閉鎖系の心とは大違いです。

そこで当然考えられる処方箋とは何かと言えば、日本の社会も国家も、声を大にして、社会の根幹、「基礎集団」としての家庭、「基本的人格」の形成の場としての家庭の再建を叫ぶことに帰着します。それが現在の日本を再生させる核心的なテーマであると思います。家庭の中に理想を追求し、家庭の中に愛と平和と安らぎを取り戻していくことです。生まれ出たときの最初の止まり木も、死んでいく時の最後の止まり木も家庭です。

家庭の核は夫婦

人類社会、どこまで行っても、男と女、これは余りにも明々白々たる真理であり、この二つの存在があればこそ、人類というものの成り立ちがあることは誰でも知っています。しかし、人類社会の難しさは何かと問われれば、これまた、男と女の関係、ということになってしまうのはどういうことでしょうか。

聖書は、人類始祖アダムとエバが神様の御心に叶うような夫婦愛を実現できなかったと言っています。すなわち、愛における過ちがあったことをほのめかしているのです。本来の理想である「一夫一婦」の夫婦愛の絶対的な形が、聖書の記述によれば、蛇の存在を暗示することにより、蛇とエバとアダムの三存在の関与という歪んだ愛の形を作り上げてしまった、すなわち、世に言う三角関係の「不倫」「浮気」「姦淫」が起きたという驚愕の歴史的事実を示唆しているのです。

男とは何か、女とは何か。これまた、聖書の言葉から引用しますと、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とありますから、「男と女」は「神のかたち」であるというのです。どういうことでしょうか。一組の「男と女」は神の姿であると解釈できます。もっと言えば、深く愛し合っている男と女(夫婦)の姿は、まさに神の姿、神の実相を示すものであるというのです。

宇宙の究極的な本体としての神は、ご自身の中に「男」の要素と「女」の要素を持つ存在であるがゆえに、その自らの姿に似せて作った人間も、「男」と「女」に作らざるを得なかった。これが、前述の聖書の言葉の意味であります。人類社会に男と女が存在するという峻厳なる事実は、まさに、人間が神に似せて作られたということの表れであり、一組の男女が夫婦として愛し合う姿は、神様の姿そのものであるということにほかなりません。

夫婦という姿ほど尊いものはありません。それは神様のお姿を意味するものであります。現代社会は、夫婦の価値をどれほど認識しているのでしょうか。一人の男にとって、妻の価値は地球よりも重く、一人の女にとって、夫の価値は地球よりも重いと認識しなければなりません。それぞれが宇宙的な価値を持つ夫婦であることを知ったとき、夫婦はお互いを限りなく慈しみ合い、お互いに思いやり、しっかりと手を取って、永遠の愛を誓う存在となることでしょう。