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誌上講演会

真の家庭運動推進協議会副会長 稲森一郎

愛の理想と現実

愛の傷付いた悲しい現実から、愛の喜び溢れる理想へと、自らの人生を開いていかなければなりません。

愛をめぐる人々の声

愛とは何ですか。真の愛なんてあるんですか。愛は壊れやすいものではないですか。人間が人間を真実に愛することができるのでしょうか。人は人をたやすく裏切ったりするのではないですか。家庭や社会における人間関係の崩壊とはそういうことを言うのではないですか。このように、容易に愛の真実性を信じられない人々の声が満ち溢れています。

自分に対して真実でない人が、どうして人に対しても真実であり得るでしょうか。自己に対して真実なる者のみが、他者に対しても真実であり得るのではないか。生存競争の厳しい、ごまかし合いの時代と言ってもよいようなこの難しい時代に、自己に対してどこまでも真実で、いい加減なことに妥協せず、ごまかしのない人というのがどのくらいいるのでしょうか。そういう人は少ないのではないですか。だから、愛も簡単にごまかしてしまうし、適当なものにしてしまうのではないですか。それが夫婦間であれ、社会的人間関係であれ、愛に偽りとごまかしが入り込んでいる理由ではないですか。

こういう疑問は尽きないものです。多くの人々が、愛に対して懐疑的になっているのが現代社会の一つの特徴です。愛は壊れ、愛は病んでいることを認める一方において、しかし、また、愛がないと成立しない社会であり、家庭であるという峻厳な事実も認めなければなりません。完全に崩壊していれば、そもそも、社会も家庭も存立することができないでしょう。

したがって、人類社会において、愛を解釈する道があるとすれば、愛は傷つきながらも、何とかその本来の愛の理想を取り戻そうともがき苦しみながら、愛というものが存在しているということになるでしょう。痛ましい愛の姿であるけれども、愛を完全に否定することはできないという現実の中に立たされていると言えるでしょう。ここに、愛の理想と現実というテーマが現れます。

属性から見た愛の理想

パウロという人は、聖書の中で、信仰と希望と愛が重要なものだと主張し、その中でも、愛が最も大いなるもので、大切なものだと、結論的に述べています。

愛が最も重要であるとするパウロの確信は、「神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神もまた彼にいます」(ヨハネ第一の手紙4・16)と言ったヨハネの確信とも完全に一致するものです。すなわち、神の本質は愛(あるいは、愛の源泉である「心情」)であるから、愛が最も重要なのだという結論に至るわけです。

さて、愛の理想は神の属性から語られる場合が多いのですが、それは、愛の「絶対性」「唯一性」「不変性」「永遠性」ということです。これらの四大属性は、神ご自身の属性でもあります。つまり、神の属性がそのまま愛の属性になるというわけです。

まず、愛は何物にも代えることができない、他と比較することができないという「絶対性」、お金とも知識とも名誉とも地位とも代えられないという絶対性を持つのが愛であるということです。お金の切れ目が縁の切れ目というのは本来の愛の姿ではありません。

また、愛は、これも愛、あれも愛といった相手の不特定多数性ではなく、特に、夫婦愛について言えば、一人の男性と一人の女性の間の一夫一婦の関係の「唯一性」が愛の幸福を約束します。フリーセックスは愛の幸福を最初から否定する猛毒を持った性関係です。

愛が簡単に変わってしまったり、一時的であったりすれば、悲しみと苦痛がもたらされますから、したがって、愛の理想というものは、愛の「不変性」と「永遠性」に見出されなければなりません。

しかし、これらの本来の愛の属性を持ったそのような愛は、放っておいてそのまま、そのような理想の愛が、独りで勝手にあるというのではなく、そのように愛を育てていく環境と教育がなければ、四大属性を備えた愛は簡単にはないということになります。愛は最初から完成したものとしてそこにあるのではなく、成長し、成熟していくものです。

この愛の成長と完成ということについて言えば、「家庭は愛を学ぶ学校」という根本原則に、日本社会はもちろん、人類全体が認識を新たにしなければなりません。

現代社会の多くの根本的な悲劇は、子供たちにとって家庭が愛を学ぶ学校になっていないということ、あるいは家庭環境がそれほど悪いものではなかったとしても、社会環境の劣悪さによって子供たちが少なからぬ悪い影響を被っているということ、この二つの要因が愛の健やかな成長という問題に対して大きな阻害要因としてのしかかっています。

コミュニケーションの重要性

愛は、二つのものが関係を確立し、喜びを分かち合うということ、すなわち、人と人、人とモノ、神と人、というように、相対的な授受関係、ギブ・アンド・テイクの関係が成立して初めて愛というものが成立するようになっています。これは言葉を換えて言えば、コミュニケーションの問題に帰着すると言ってもよいでしょう。

コミュニケーションの働きとして、三つのことが考えられます。これは、そのまま、愛の三大メカニズムに直結するのですが、一つ目は、コミュニケーションは相互信頼を築き上げるはたらきを持つということ、二つ目は、お互いに配慮し合う関係を促進するということ、三つ目は、相互理解を助けるということ、この三つです。

言い換えますと、この三つのコミュニケーションの働きを基盤として、愛の三大メカニズムが成立します。即ち、愛は、①相互信頼(お互いに信頼し合うこと)、②相互配慮(お互いに相手を配慮する気持ち)、③相互理解(お互いに理解し合うこと)という三つの条件を満たしながら、人間同士、あるいは国同士が幸せになる関係を築き上げていくということです。反対に、信頼と配慮と理解がなければ、愛は成立しないとも言えます。

愛のない世界、愛のない社会、愛のない家庭が、愛を取り戻そうとするとき、いろいろな目安を設定して、愛を取り戻していくことが可能であると思いますが、一番、重要なことはコミュニケーションを積極的に図るということです。

人と人との関係、組織と組織の関係、国と国との関係、あらゆる人間関係が作り上げる営みが、「愛の幸福(心情の喜び・満足感)」という核心的要素を取り戻す挑戦と努力に向かうとするならば、何と言っても、根本的にはコミュニケーションのトータルな回復という観点を避けて通るわけにはいきません。

あの人は何を考えているのか分からない、あの団体は何をたくらんでいるのだ、あの国は何をもくろんでいるのだ、といった相互不信、相互懐疑があれば、相互信頼も相互理解も生まれず、発展的な良い関係が築かれるはずはありません。

ある意味で、非常に情報化され、また、開かれた現代の社会であるという利点に囲まれながら、私たちは生活している一方で、夫婦関係、人間関係、国家関係などにおいて、目に見えない多くの壁を作って暮らしているという側面もあります。「壁」、すなわち、コミュニケーションを阻むものが厳然として、私たちの周りに、あるいは、私たちの心の中に、数多く横たわっていることが、世界の平和、また、家庭の平和を妨げているのです。

真の人生の勝者に

愛の傷付いた悲しい現実から、愛の喜び溢れる理想へと、わたしたちは自らの人生行路を開いていかなければなりません。それは、諦めることもできず、無責任になることもできず、がっぷりと四つになって取り組んでいかなければならない課題です。愛において勝利をおさめた者こそ、真の人生の勝者です。そういう気概を持って、人生に前向きに、希望と感謝を忘れることなく、取り組んでいきましょう。そこには、必ず、神様の導きがあるはずです。