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誌上講演会

2010年5月9日 第5回ファミリーフェスティバル西神奈川での講演より
UPF日本・教育局長 松波孝幸

近年、忘れ去られ最も無視されてきたもの(下)

愛を求めるのが本性

私たちは父母のあふれるほどの愛に育まれて生まれてきます。大人になれば、愛を求めて結婚します。そして、死ぬときには愛する家族に見守られ、友人たちに惜しまれたいのです。生まれてから死ぬまで愛を求め続けるのが人間の本性です。いくら年を重ねても同様です。その本質は変わりません。人は愛的存在です。

私の知人に、ソ連占領下のアフガニスタンに夫婦で宣教に行った人がいます。KGBに命を狙われ、イスラム教徒の有力者にかくまってもらいました。彼は大富豪で奥さんが80人もいます。ある時、その大富豪がしんみりと「おまえたちは仲が良くていいな」と言ったそうです。「おれのところは女同士がいがみ合ってばかり。おまえたちのような仲の良い愛の家庭が良い」と。数百年も続く一夫多妻制社会でも、女性は夫に唯一、絶対、永遠の愛を求めるのです。長い期間続く社会習慣によっても愛の本質は変わらないのです。多くの女性と不倫をしたような男性でも、彼の妻が不倫をすると許せない気持ちになるのが愛です。

愛は「唯一、絶対、永遠」を追求します。妻は夫に「あなたは平凡な人ね」と言ってはいけません。「あなたは世界で唯一の人、私にとって絶対で永遠の夫です」と言うと、夫の心は幸福でみたされます。夫も、妻が控え目に「私は美人じゃないから」と言っても、「そうだね」と応じてはいけません。「あなたのような女性はこの世に一人しかいない。あの世でも結婚しよう」と言われると妻は幸せです。愛がそれを求めているからです。

「唯一、絶対、永遠」という言葉の意味は哲学や宗教が教えてくれるものではなく、愛が教えてくれるものです。幼い子供たちは自分の両親をとても愛していますから、心の底から「自分の父母は世界で唯一であり、絶対的に信じ、永遠に生きていてほしい」と思っています。愛が「唯一、絶対、永遠」を経験的な実感で教えるのです。

それでは、どうして誰もが「唯一、絶対、永遠」の愛を生涯求め続けるのでしょうか?このような人間の持つ神秘的現象に関する質問には、科学や哲学では回答を与えられません。啓示の書と言われる聖書が的確な回答を与えてくれます。「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1章27節)という言葉が、人間を一番的確に表現しています。限られた、また相対的な存在の人間が、絶対的に愛したい、愛されたい、愛する人に絶対的に従いたいと思うのです。この性質は神の像(かたち)なのです。人は不思議な存在です。

愛が中心の人生

仕事の能力があり、弁が立ち、美しくて威厳のある妻であっても、夫を見下し、信頼できなければ不幸で寂しい人生を歩みます。平凡な女性であっても、夫を神様のように信じ、尊敬し、崇められるとすれば、そういう女性のほうが幸せなのです。男性も同じです。出世はしたけれど家庭が破壊され孤独な人生を歩む人よりも、妻を信じ尊敬し、その尻に敷かれ、妻に言われるとおりにしているのが嬉しくてしょうがない、という夫のほうがずっと幸せな人です。

誰しも絶対的に愛してみたい、絶対的に信じたいし、また絶対的に従ってみたいのです。しかし完全な理想的生活は、現実の人間世界には残念ながらありません。現実にはないものを私たちの本性は追求しているのです。しかし完全に得られないとしても、努力により近づくことができます。

人が唯一、絶対、永遠の愛に近づけるのは、「結婚で始まる家庭」を通してです。絶対的に信じ、従うことができ、誇ることのできる、妻や夫、子供を持つ幸せの実感は、家庭でしか味わうことができません。その家庭をまねるのが学校の教育であり、企業の経営であり、国の政治です。それらの成否の基準は家庭にあります。

家庭の始まりである結婚は、新しい世界に出発するための門です。愛は唯一、絶対、永遠であることを願いますから、結婚も唯一、絶対、永遠なものでなければなりません。両者の唯一、絶対、永遠を支える基礎となるものが大切です。それが純潔です。愛を追求する人生において、純潔はこの上なく大切で、純潔の破壊は自分の人生の本質を破壊することに直結します。言わば、純潔の破壊は自分自身を破壊することです。

結婚しても子供を産みたくないという人が多くなっています。子供を産むと早く年を取り、美しさと自由が失われると考えるのでしょう。しかし、実際には、払った代価を埋めて余りある大きな喜びの世界が開かれていくのです。それが子供の誕生であり、家族の愛の成長です。

愛には二種類あります。一つは、美しいものを見て感じる受動的な愛です、若い男性は美しい女性を見て愛したいと思います。しかし、その愛には永遠性がありません。どんなに化粧品やダイエットにお金を使っても、美しさは日々失われていくからです。

もう一つの愛は、犠牲になることで生じてくる愛です。お金や物は使うとなくなりますが、不思議なことに、愛は投入すればするほど増えます。女性はそれを子供を産むときに経験しているはずです。つわりで苦しみ、最後には出産の苦しみがありますが、生まれた子供を抱えると、たとえようのない大きな喜びを感じます。犠牲になっただけ、かわいくてたまらないのです。

夫が妻に尽くし、妻が夫に尽くすことを通して育つ愛があります。失敗した夫を妻が支え、勇気づけて克服したり、あるいは病気になった妻を夫が懸命に看病して回復させる、また夫婦で苦労をしながら子供を育てていく中で、夫婦の愛情が増し加わるのです。年を取り、互いに寂しく感じるような姿になっても、それを補って余りある愛が育っているのです。老人になっても幸せなのです。だから年を取れば美しさはなくなります。そのように、人生は愛を中心にできています。

家庭は愛の修道院

三重苦のヘレン・ケラーが「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と心から尊敬した日本人が中村久子です。久子は、3歳の時に足の霜焼けがもとで脱疽になり、両手両足を失いました。やがて両親をなくし、祖母に育てられながら、口で字を書き、裁縫をすることを覚え、娘になると見世物小屋に出されます。

一時は親を恨み、人生を恨んでいたのですが、仏教の信仰に目覚め、父親が久子の不幸を心配し名前を呼びながら亡くなったという話を聞き、心を揺さぶられ、悔い改めて、深い感謝の心情で生活するようになったそうです。心配な子供ほど愛情が深まるのが親で、愛とはそういうものなのです。家庭は愛を成長させていく修道院のようなものです。宗教的に最も訓練される場所が家庭で、私たちの修道院は山の中にではなく、自分の足元、家庭にあるのです。遠くの人から尊敬されるのは比較的簡単ですが、身近な人から尊敬されるのはとても大変です。男性であれば、妻から尊敬されること、父母であれば子供から真に尊敬されることが難しいのです。私たちの足元に、最も高度な宗教的問いが横たわっています。それが結婚であり、家庭なのです。

これらのことは、「神は自分のかたちに人を創造された」という言葉に人生を照らし合わせて考える時に、初めて理解が可能となります。私たちは神を求め、神の知恵を探るべきです。人間の中には人間を導く知恵はありません。

私たちは自分で自分を知ることはできません。人間は言わば神と悪魔の間を行ったり来たりしている存在です。その間のどこかを選ぶのは人間の責任です。混沌とした人生を抜け出るためには、神を尋ねるしかありません。

紀元前十世紀の頃、イスラエルが最も栄えた時代のソロモン王が、旧約聖書の箴言に面白い言葉を残しています。「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである」(9章10節)と。神を知ることは自分を知ることです。神を求めることで自分を発見し、自分の心が何を求めているのかが分かるようになります。そして、その英知はどんなものにも勝るのです。