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誌上講演会

真の家庭運動推進協議会名誉会長 宋榮錫

最後の勝利者となるために

神と人とを結ぶのが宗教

21世紀は科学の世紀であると同時に宗教の世紀だと言われています。私たちは科学技術のおかげで豊かな文明を享受し、便利な生活を送っていますが、人間はそれだけではどうしても満足できません。快適に暮せたらいいのではなく、何のために生きるのかを、納得できるまで追求するような本性を誰もが持っているからです。つまり、体が満たされても心が満たされない、その心の問題を扱うのが宗教なので、21世紀は宗教の世紀でもあるのです。

宗教とは「根本」を表す「宗」の字に、教える、つまり根本の教えという意味です。英語のReligion(リリジョン)の訳語として幕末、欧米との外交交渉の中で作られたものですが、リリジョンには興味深い意味があります。リは再び、リジョンは結ぶで、再び結ぶ。何を結ぶのかと言うと、失われた神と人との関係を結び直すというのです。この背景には、人類始祖の堕落によって神と人間との関係が切れてしまったというキリスト教の教えがあります。神道や仏教にはキリスト教ほど明確な堕落という考えはありませんが、人間には罪や穢れがあり、神や仏と結ばれることでそれを拭い、清らかな自分になるという教えには共通したものがあります。

愛の誕生と成長を繰り返す人生

人間は平均して80年余りという有限な生を生きています。そんな人間がどうして永遠な神や仏のことを思えるのか、考えてみると不思議です。また、水平線からの日の出や満天の星、ヒマラヤの雪景色などを見て感動するのはどうしてでしょう。宗教者でなくても、そこに神の愛を実感するような人が多いのです。私たちの中に、何か永遠な部分、あるいはそれに感応する部分があると考えなければ説明できません。

誰もが家庭に生まれ、父母に愛されて育っていくうちに、人や周りのものを愛することを覚え、やがて父母のように新しい家庭を持ち、子供らを産み育てるようになります。愛の誕生と成長を、世代を超えて繰り返しているのが、人間の歴史なのです。

愛を体験することで、人は、周りの人やもの、そして何より自分自身を大切に思うようになります。そんな愛が育つ元は誰もが持って生まれるのですが、愛が一人で育つことはあり得ません。何か対象とのかかわりの中で育つものが愛だからです。

愛の感性が育ってくると、次第に私たちが何ものかに愛されていることに気づくようになります。身近な父母や祖父母が私たちを愛してくれているのは確かなのですが、それだけではありません。例えば、自然も私たちに必要な食べ物を提供してくれ、呼吸に必要な空気を与えてくれています。つまり、私たちは多くの人や自然によって生かされている存在であり、その背後に生かしている何ものかが存在していることを感じるようになるのです。

私は日本に「壁に耳あり障子に目あり」ということわざがあるのを知って感心しました。これは、誰かが見たり聞いたりしているかもしれないから気を付けるように、との意味ですが、そんな風にして私たちを見守っている神様がいるよ、というように私には聞こえたのです。「お天道様が見ている」と同じで、神様のことを身近に感じながら暮らす良き伝統が日本には古くからあったように思われます。

人間を救いたい神様

そんな神様や仏様との関係が切れてしまったと多くの宗教が教えています。ですから私たちの心の中にも、善に向かう思いと悪に向かう思いとが争うような状況があります。そして、自分中心の欲望を満たそうとすることから、悲劇的な犯罪や事件が起きているのです。そんな世相ばかりを見ると、神や仏はいないと思うのが当然でしょう。ニーチェも「神は死んだ」と言いました。しかし、神はいないのではなく、人が神を見失っているというのが真相なのです。

神と人間との関係は、親子の関係に例えるのが一番ふさわしいでしょう。関係が切れてしまった神と人間は、離れ離れになった親子です。子供は親のことなど忘れてしまったかもしれませんが、子供を忘れる親はいません。親のほうから子供である人間を捜し求めるのは当然です。それが、神による人間の救い、宗教的に言えば摂理です。私たちが心の苦しみから救われたいと願う前に、そんな人間を救いたいと思っている神様がいることに気づく必要があります。

また、人間と神仏との関係が切れているだけでなく、善なる神仏に対抗する悪の主体が存在することを、多くの宗教が共通して教えています。私たちが悪を犯すよう誘導する存在があるというのです。一番分かりやすいのは、キリスト教のサタン、悪魔という表現です。一方、仏教では無明というように、知恵の光に照らされない迷いを強調します。いずれにせよ、私たちが切れてしまった神仏との関係を取り戻すには、悪と戦うことが避けられない道なのです。

心の癒やしのために宗教を求める人もいますが、宗教の最大の目的は、人々に悪との戦い方と、善の道の歩み方を教えることにあります。ですから、宗教には厳しい側面があることを理解しなければなりません。

死生観を持つ生き方

今の日本社会が直面している大きな問題の一つが高齢化です。増える孤独死や介護、医療、年金などによる財政の悪化などだけでなく、約20年と長くなった老後をどう生きればいいのか、多くの人が明確な指針を持っていないのです。

老後の暮らしが不幸になるのは、病気など健康上の問題も大きいのですが、死後の世界に対する明確なビジョンを持っていないことが、もっと深刻です。医療の発達でいくら寿命が延びても、人が死ぬのは避けられません。「終わりよければすべてよし」と言われますが、人生の終わりが不幸だと、どうしても人生全体が不幸のように思えてしまいます。

高齢者にとって最も大切なことは、しっかりした死生観を持つことだと言われます。死後のことが不安だと、今の生き方に迷いが出てきて、満足できる老後を過ごせないからです。しかし本来、死生観は人生観の基本でもあり、老後になってから考えることではありません。若い頃から、深く考え、身に付けておくべきことなのです。

人間の心そのものではありませんが、心の座といえる脳細胞は、高齢になっても成長することが知られています。脳の若さを保つことが体の若さを保つ秘訣でもあるのです。このことは、多くの宗教の教えと一致しています。つまり、人間の魂、霊性は年を取るにつれて成長し、その絶頂期において死を迎える、ということです。肉体は魂を成長させる土台であり、魂が完成すれば、もはや必要ではないので滅びるのです。

その考えからすれば、老後こそ人生の絶頂期ということになります。若い頃から、そんな老後を目指して生きれば、目の前の出来事に一喜一憂することはなくなるでしょう。たとえ不幸に見舞われても、これは自分の魂を成長させるための試練だと思うようになりますから。

生きて働く神様を実感する

愛の成長から人生を見ると、老後はその完成期に当たります。家庭において無条件で愛せる孫がいるのは、そのためとも言えます。しかし、愛の実践が自分の家庭に留まっていたのでは、完成期ではありません。地域から国家、世界と、その実践の場は用意され拡大されていきます。つまり、後に続く若い人たちに、人間はこのように生きるものだと後姿で教える役目が老人にはあるのです。

私自身、70年に及ぶ人生と50年の信仰で、来世に対する明確なビジョンを持てるようになりました。しかし、それをあからさまに語ることは、皆さんの魂の成長を妨げることになりかねません。死後の問題については、何より一人ひとりが自分で考え、納得していく以外に体得の道はないからです。

死とはこの世の人生のゴールなので、それを意識すると、残された生を真剣に生きよう、価値あることに費やそうと、誰もが思います。そうやって、人間は自分の人生を仕上げるようになっているのです。

現役世代の人たちは、そんなことより仕事や家事、子育てに振り回されているかもしれません。少しでも人よりいい仕事をして認められたい、子供にいい教育を受けさせたいなど、それが自分の利己的な欲望からなのか、家族や社会を思う公益心からなのか、渦中にいる間は分からないことが多いのです。

でも、やがて、それらを総括する時を迎えます。事故や病気など不運に見舞われるようなことがあっても、それらをすべていい人生だったと思えるためには、神様とのかかわりにおいて理解することが必要です。つまり、すべては神様との切れた縁を結び戻すためであった——と。

神様が私たちに直接現れることはほとんどありません。いろいろな人やもの、出来事を通して、神様は私たちに現れてきます。ですから、それを感じる側が問題なのです。感度が悪いと、何も分からないままに時が過ぎていきます。生きて働く神様を実感しながら日々を送ること、それこそが最後の勝利者となるための生き方です。

 -Profile-

■ ソン・ヨンソク

1943年12月 韓国全羅北道扶安で出生。1963年 全北群山師範学校(現・教育大学)卒業。2003年 米国統一神学大学名誉神学修士。2005年 韓国鮮文大学名誉神学博士。これまで50年に渡り、韓国、日本、米国、アルゼンチンで宣教活動の責任者を歴任。現在は全国祝福家庭総連合会総会長。2009年から真の家庭運動推進協議会名誉会長