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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

明智光秀——領民に慕われた愛妻家

逆臣とされる光秀だが、優れた統治や妻との純愛、皇室への尊敬の篤さなどから再評価されつつある
明智光秀肖像画
明智光秀像(本徳寺蔵)

日本の近代を開いたとされる織田信長の人気が高いことから、本能寺の変で信長を討った明智光秀は、これまで主君殺しの逆臣として評判がよくありませんでした。ところが近年、学識が深く、領内統治に優れた行政手腕を発揮したことや、一夫一婦制を守った妻煕子(ひろこ)との純愛、皇室に対する尊敬の念などから、見直されつつあります。

光秀の命日とされる6月14日、滋賀県大津市坂本にある光秀の菩提寺、天台真盛宗総本山西教寺では毎年、光秀の追善法要と明智光秀公顕彰会の総会が行われています。出生地の岐阜県可児市と山県市(二説がある)や居城のあった京都府福知山市、亀岡市、大津市など光秀ゆかりの地から毎回200人から300人の参加者があるという盛況振りです。これも、統治では光秀の善政が語り伝えられているからでしょう。

清和源氏の生まれ

光秀は清和源氏の土岐氏の支流である明智氏の生まれですが、生年は1528年、26年などいくつかの説があり、はっきりしていません。通説では、美濃国の守護である土岐氏の一族で、青年時代は戦国大名の斎藤道三に仕えていました。その後、道三とその嫡男義龍(よしたつ)が争った際、道三方に味方したことで義龍に明智城を攻め滅ぼされ、一族が離散したとされます。

その後、光秀は諸国を巡って修業し、やがて母方の若狭武田氏を頼って、越前国の戦国大名、朝倉義景(よしかげ)に仕えます。既に30代後半になった光秀の記録が史料に出てくるのは、このころからです。その義景を後に第15代将軍になる足利義昭が頼ってきたことで、光秀の運が開かれます。兄義輝と母慶寿院を松永久秀らに暗殺された義昭は、姉婿の武田義統(よしずみ)を頼り若狭に、さらに越前の朝倉氏の元に逃れたのです。

朝倉義景の母は若狭武田氏の出で、光秀の母は武田義統の姉妹だったことから、光秀は義昭の接待役を命じられたものと考えられます。浪人時代に学識を深めた光秀は古いしきたりに詳しく、和歌にも通じていて、上流階級との付き合いができたのです。

上洛して将軍になりたい義昭は朝倉義景に助力を期待していたのですが、意に反して義景は動きませんでした。義景を見限った光秀が目を付けたのが、急速に勢いを増してきていた信長です。義景の臣下として信長に対面した光秀は、義昭を奉じて京都に攻め上るよう要請したのです。天下に野望を持つ信長は、その話に乗ると同時に、光秀の能力に魅力を感じ、自らの臣下になるよう誘ったのです。

その後、信長は義昭の期待通りに上洛し、義昭は将軍になったのですが、やがて自身の天下を目指す信長と衝突するようになります。義昭の元を去り、信長に仕えるようになった光秀は、戦にも優れた能力を発揮し、羽柴秀吉らと並んで信長家臣の出世頭となっていくのです。ちなみに光秀は鉄砲の名手で、朝倉氏に仕えたのも鉄砲の腕を売り込んだからでした。

西教寺の檀徒に

信長は敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちし、全山の寺院を焼き払いましたが、光秀もそれに参加しています。その際、比叡山のふもとにある西教寺も焼かれてしまいました。光秀が信長から坂本城主に任じられたのは、その功績によります。ところが、坂本城主となった光秀は、西教寺の檀徒となり、同寺の復興に力を注いだのです。

そのわけは、越前の朝倉義景に仕えていた時代、来訪した真盛(しんせい)和尚の教えに深く共鳴していたからです。西教寺を開いたのは開基は聖徳太子と伝わりますが、室町時代に天台宗の真盛が寺に入り、不断念仏の道場としたことから栄えるようになります。まさに真盛は西教寺中興の祖で、今では天台真盛宗として独立し、全国に400余の末寺があります。

西教寺の境内には光秀と妻・煕子をはじめ一族、家臣らの墓があります。光秀は家臣の弔いを同寺に依頼した際、身分の上下を問わず同じ量の米を納めており、そこから仏教の平等思想を信念としていたことがうかがえます。また、領民のために免税や治水に努めたことから、光秀が治めた領内は暮らしが楽になったと言われます。

一人も側室を持たず

光秀を語るとき、忘れてはならないのは妻煕子のことです。光秀との婚約時代、疱瘡(天然痘)に見舞われ右頬に醜い傷跡が残ってしまいました。これでは煕子を嫁がせるわけにいかないと考えた父は、煕子と瓜二つの妹を代わりに光秀の元にやったのですが、光秀はそれを見破り、改めて煕子を妻として迎えました。

当時の戦国武将は何人もの側室を持ち、子供たちを政略結婚に使うのが普通でしたが、光秀は煕子が生きている間は一人の側室も置かず、煕子を大切にしました。煕子の死後、姉の意を受けた妹が、光秀の身の回りの世話をするため後妻に入っています。

煕子と光秀との間に生まれた三女が、後に細川忠興の正室となり、キリスト教の信仰に導かれ、洗礼名から細川ガラシャと呼ばれた珠(たま)です。ガラシャは関ケ原の戦の前、人質となった大坂の屋敷に火を放ち、家臣に自らを刀で突かせて壮絶な最期を遂げ、敵将石田三成の度肝を抜いたことで有名です。

明智城の落城に続く浪人生活、朝倉家に仕えながらも困窮した中、煕子は自分の黒髪を売って光秀を助けたという逸話も残っています。内助の功では山内一豊の妻千代といい勝負です。

天皇を守るための謀反

本能寺の変で光秀が信長を討った理由について、①信長から受けた屈辱への怨恨②古い家臣も不要になると無慈悲に追放し、戦では無辜(むこ)の民も殺戮する信長への失望③自ら天下を取ろうとする野望④朝廷をないがしろにする信長から天皇を守るため——など諸説があります。その中で最近目立つのが、教養が深く、勤皇の志の篤い光秀が、皇室を守るために信長を討ったとの説です。

天下の覇者となった信長は、朝廷の左大臣への推任を二度にわたって辞退し、二度の馬揃えによる威嚇で、正親(おおぎまち)天皇に誠仁(さねひと)親王への譲位を迫りました。馬揃えは、今で言えば軍事パレードです。もし、正親天皇が信長の脅し屈していたら、日本史が変わっていたかもしれません。

宣教師からヨーロッパ世界、キリスト教信仰を学んだ信長は、やがて自らを唯一絶対の神と見なすようになります。その思想は、天守閣ならぬ天主閣を持つ安土城の構造などからもうかがえ、信長は自分よりも高い価値の人間を認めようとしなかったのです。しかも、京の都を廃して、日本の中心を安土に遷そうとしていたとも考えられます。

同様の危機感は、公家や京の町衆、教養ある武士たちも広く共有していました。あくまでも状況証拠ですが、そうした筋からの説得を受け、光秀は立ったのではないでしょうか。