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誌上講演会

真の家庭運動推進協議会副会長 稲森一郎

家族の思想を求め、実践する時代

関係性の出発点

私たち人間は、一人で生活しているわけではありません。多くの人間関係の中で暮らしています。どんなに孤独が好きだと言っても、本当に完全な孤独でいられるはずはありません。孤独であるという人も、人間付き合いはないにしても、動物を飼っていたり、音楽を一人聴き入っていたり、風景写真を撮り歩いていたりするものです。すなわち、どんな関係をも遮断するといった完全なる孤独はありえないことになります。そんなことをしたら、存在そのものを否定することになります。言い換えれば、存在は、その中に、「関係性」という重要な概念を含んでいることになります。

人間である以上は、人間との関係を持って生きるということは当然であり、そうしなければ人間らしさを失ってしまうでしょう。オオカミに育てられたオオカミ少年は、人間の言葉を話すこともできず、オオカミのようにうなり声や遠吠えをするだけが精いっぱいになってしまうでしょう。生まれ出た人間が、人間として関係性を出発させるところが、家庭という場所であり、家族という心情共同体の人間関係であることは言うまでもありません。

今日、家族の問題がいろいろと取り沙汰されている中で、何が問題かを探ると、関係性の崩壊、関係性の希薄化、という事実を捉えることができます。夫婦関係、親子関係、兄弟関係など、家族というものを成立させているこれらの基本的な関係が希薄になり、あるいは関係が全くなくなり、ついには、崩壊に至るという事態を招くようになります。

問題は、家族関係の悪化、希薄化、あるいは崩壊はなぜ起きるのかということになりますが、一般的に言われていることを見てみますと、①不倫、②アルコール依存症(父親もしくは母親が)、③ギャンブル依存症(父親もしくは母親が)、④薬物依存症(父親もしくは母親が)、⑤子どもに対する精神的、肉体的虐待、⑥家庭内暴力、⑦生活苦(サラ金地獄など)、⑧生活苦を伴う家族の病気(難病、介護など)、などが挙げられています。家庭内に何らかのトラブルを抱え込んで、そのために、家族同士のコミュニケーション、関係性が円滑にいかなくなって、最悪の場合、家庭崩壊という事態に至るということです。人間らしい人間になるための、「関係性の出発点」であるはずの家庭が、関係性の崩壊を迎えるならば、それは家庭の終焉を意味します。

家族の思想を定立する時代

ここで付言しておくべきことは、家庭崩壊を促進する思想が、20世紀において急速度に世界に広まったということです。そのことが事態をより一層悪くさせていますし、家庭解体という思想をオブラートに包んだ陰険な運動が、社会において陰に陽に展開されています。もっともらしい大義を掲げて、一見して見分けにくいため、騙されてしまうことが多いのですが、結論的には、家庭の解体を謳っているのです。

たとえば、ウィルヘルム・ライヒやハーバート・マルクーゼの思想を見ますと、マルクス主義とフロイト主義の統合という立場に立って、家父長的家族制度を打破するという思想を主張していますが、家族制度がしっかりしていると、フリーセックス社会を作りにくいという本音がその主張の中に隠されています。フリーセックス社会を作るためには、夫婦関係、親子関係は邪魔であり、それらの関係を成立させている家庭を否定しなければなりません。ライヒなどは、徹底的に性の解放を叫んだ人物です。また、女性解放運動の思想家たちの中にも、ラディカルなものになると、家族制度の否定を主張している者があります。このような家庭解体思想が蔓延していくとすれば、それはゆゆしき問題でありますが、それに対して、真に、家族の重要性、家庭の価値を説く思想が、ますます必要とされることは当然のことと言えます。

21世紀の世界をリードする平和思想があるとすれば、何よりも、それは「家族の思想」を唱導したものであり、「家族の思想」を根本から見直して定立するものでなければならないと言えるでしょう。不倫、暴力、虐待、アルコールなどの家庭内のトラブルは、家族を構成する各人が道徳的に生きることができないという「道徳性」の問題であることは明らかであります。そうしますと「道徳性」の根っこにあるものは何かと掘り下げていけば、それは宗教だと言えます。道徳性と宗教性は表裏一体であり、道徳の源泉として宗教があることを認めないわけにはいきません。

先に挙げた、家庭解体の思想家たちが、宗教否定の立場を取った無神論者の人々であることを考えるならば、本当の家族思想、家庭思想は、有神論の立場から生まれてくることは明白であります。健全な家庭(平和と幸福)→道徳律(愛、信頼、思いやり)→宗教(愛、慈愛、慈悲、仁)→神様(心情、愛)、という因果律の進行のたどり着く最終点が、神様であります。端的に言えば、家庭に平和と幸福を、というテーマはそのまま、道徳、宗教、神様に一直線につながっていくと見てよいわけです。

心情論理を優先させる

家庭の問題、子育ての問題、老人介護の問題をはじめ、社会の種々の不条理の問題、そのほか、国家予算の割り当てや地方財政の割当額がどうであるとか、予算を削るとか削らないとか、予算がないから事が進まないだとか、問題の解決をどうも経済的な要件に帰着させようとする傾向が顕著で、結局、事態が一向に改善しないということが多いように思われます。

もちろん、経済の問題を否定するつもりはありませんが、本当にやる気があれば、いろいろと現場での知恵も生まれてくるかもしれないのに、前向きの心情的な姿勢、気持ちといったものを感じ取ることができないという思いにしばしば駆られます。やることもやらないで言い訳の多い社会……、人々の心の中に、心情の枯渇状態、人に対する愛や思いやりを動機として生まれる頑張りの気持ち、こういったものが薄らいでいると感じることがあります。

心情論理(ハート)だけですべてを片付けるつもりはありませんが、理性の論理(頭)が強くなりすぎると、延々と論議が続く割には、事が進まないということになりかねません。むしろ、人間への愛、思いやりこそが問題解決の重要なカギを握っていると言えるでしょう。その肝心かなめの「人に対する愛、思いやり」が弱ければ、いくら論議をしても、いい知恵も解決法も出てこないと言えます。それなりの案が出たとしても、一体、誰がやるのかといったところでつまずきます。すなわち、何もしない社会になってしまうのです。

心情論理を強調する理由がここにあります。愛したいという気持ち、思いやるという精神、このような心情をはぐくんでいく家庭、社会、学校を作り上げていくことが、最も重要なことであると気づかなければなりません。そうしなければ、家庭も社会も国家も活力を失い、衰退の一途をたどることになるでしょう。枯渇しつつある心情をいかに潤いのあるものにするか、愛と信頼と思いやりで結ばれる社会にこそ喜びと平和があるという自覚に立って、心情を深める道を探し求めていかなければなりません。

結論として、心情、愛、思いやりの成長、成熟は、しかるべき「家族の思想」の定立と実践の中から生み出されることを確認したいと思います。「しかるべき」という条件は、まず、有神論の立場を意味するものであり、次に、世界の宗教間の相違を超えた共通分母的な普遍性を持つものでなければなりません。家族の思想を求め、実践する時代、それが21世紀であり、それによって、世界の平和の道までも開かれるという時代を迎えています。皆様のご家庭のご多幸をお祈りいたします。