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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

法然——誰もが救われる道を開いた日本仏教の改革者

敵に殺された父の遺言「復讐するのではなく、殺し殺される悪因縁の根を断ち切れ」を心に浄土宗を開いた

800回大遠忌

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「披講の御影」 藤原隆信作

今年は浄土宗を開いた法然の没後800年に当たります。そのため、浄土宗の本山である京都の知恩院や東京の増上寺では800回大遠忌が営まれます。

法然が生まれた平安時代の末、戦乱や災害が続いて人々は苦しんでいました。当時は貴族の摂関政治が衰退し、それに代わる武士が台頭していた動乱期で、世の中には末法思想が広がっていました。

仏教の教えは、この世で悪事を行った人は、死後、地獄へ落ちるというもの。それを恐れた人たちは、浄土に行くのを願いましたが、そのためには厳しい修行・学問をするか、寺に多額の寄付をするかの道しかありません。貴族など特別な人に向けて説かれていたのが当時の仏教だったのです。

それに対して、学問も修行も必要なく、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで浄土に行けるとする専修念仏(せんじゅねんぶつ)を説き、人々を安心させ、日本仏教に革命をもたらしたのが法然です。

父の遺言を守り

法然は長承二(1133)年、美作国(みまさかのくに)久米(岡山県久米郡久米南町)の押領使(おうりょうし)・漆間(うるま)時国(ときくに)の子として生まれます。押領使は荘園を守る地方警察のようなものです。母は渡来系の氏族である秦(はた)氏の女性と記されています。

その父が、法然が9歳の時、恨みをもった武士の夜討ちに遭い、殺されてしまったのです。息を引き取る間際、父は法然に、「おまえが相手に復讐すれば殺し、殺される悪因縁が繰り返される。それよりもおまえは、その根を断ち切れ」と遺言します。殺した者も、殺された者も共に救われる道を開け——との命題で、これが法然の目標となったのです。

母の計らいで菩提寺に入った法然は、住職に学問の才能を認められ、仏教の最高学府であった比叡山で勉学することになります。その後、15歳の時に皇円(こうえん)のもとで得度し、次いで黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗るようになります。

以後、あらゆる仏典を研究した法然は、「智慧第一の法然坊」と言われるほど学識を深めていきました。

平等に救われる道を

ところが法然は、自らを浅学悲器と言い、悪を止める戒と、心の平静を得る定と、真実を悟る慧という仏道修行に必要な「戒定慧」を守れない、と悩んでいます。

また、仏教界にも世俗と同じ権力闘争や身分格差があることに悩み、奈良の高僧たちにも訊ねますが、満足する回答は得られませんでした。43歳まで25年に及ぶ修行を重ねても救いの確信が得られなかったのです。

ある時、秦氏の寺である嵯峨・清涼寺に1週間籠った法然は、庶民が必死に祈る姿を見て、自分と同じように悩んでいる多くの人たちが平等に救われるような教えがあるに違いないと考えます。

そして、探し求めていた承安五(1175五)年、唐の高僧・善導の『観経疏』に、「私の国に生まれたいと思い、時と所を選ばず、わが名を呼ぶならば、いつでもどこでも救おう。それが光明摂取(阿弥陀如来が光明によって衆生を救いとること)の本願による」という文を発見し、念仏の行に専修することを決めたのです。

その後、法然は比叡山を下りて東山に住み、専修念仏の教えを広めるようになります。

讃岐に流され

法然の教えは、学問がなく、日々の生活に追われているような弱者に向けられています。その人たちも救われる道を探し求める中、その名を呼ぶだけで救いに来てくださる阿弥陀如来がいることを知ったのです。

厳しい学問や修行による救いは「自力」ですが、それができる人は限られています。そうではなく、私を救ってくださる阿弥陀如来にすべてを委ねる「他力」であれば、誰でも平等に救われることができます。その信仰上の大きな転換を果たしたのが法然です。教えのやさしさと法然の人柄から、専修念仏は人々の間に急速に広まります。

これに危機感を覚えたのが既成仏教です。比叡山や興福寺の訴えにより、朝廷は念仏停止の断を下し、法然は讃岐(香川県)に、弟子の親鸞は越後(新潟県)に流罪となります。

讃岐に渡る途中、船にこぎ寄せてきた遊女に、「卑しい仕事の女でも救われるのか」と聞かれた法然は、その仕事はやめた方がいいが、やめられないなら、そのままでも念仏で救われる、と答えています。これは、聖書にあるイエスと姦淫の女との話を連想させます。

法然により、誰もが救われる道が開かれたことで、日本仏教は大衆仏教として広まっていったのです。