機関誌画像

歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

親鸞——初めて家族で救いの道を歩んだ僧

師法然の浄土宗の教えを深め、僧侶が妻帯し子供をもってもよいとして浄土真宗を開いた

750回大遠忌

親鸞画像
親鸞聖人肖像画「安城御影」

法然の弟子で、後に浄土真宗の宗祖となる親鸞が亡くなったのは弘長二(1262)年、没後750年に当たる今年、浄土真宗のお寺では親鸞聖人750回大遠忌が営まれます。法然80歳、親鸞90歳と、どちらも当時としては非常に長生きでした。

法然が76歳で讃岐に流された時、越後に流された親鸞は35歳で、41歳の開きがあります。その若さで親鸞は、法然がたどり着いた専修念仏(せんじゅねんぶつ)——ひたすら南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀如来によって救われる、という教えを深めていきます。

親鸞は承安三(1173)年、貴族・日野有範(ありのり)の長男として京都に生まれました。しかし、4歳の時に父を、8歳の時に母を相次いで失い、叔父の藤原範綱(のりつな)に引き取られます。9歳の時に自ら願い、京都東山の青蓮院で得度して仏門に入りました。母は源義家の孫娘で、平家の全盛期に命を長らえるには僧になるしかなかったのです。以後20年、29歳になるまで比叡山で修行します。

不犯の戒律に疑問

しかし、苦しい修行でも悟りは得られないと考えた親鸞は29歳で比叡山を下り、聖徳太子が建立したという京都の六角堂へ百日参籠を行います。そして95日目の明け方の夢に聖徳太子が救世菩薩の化身として現れ、「妻をめとってもよい」という意味のお告げをしたのです。

当時、仏教の戒律では僧は妻帯が許されておらず、師の法然は「妻をもっても念仏すればいい」と教えていましたが、自身は独身を守っていました。しかし、生涯不犯(ふぼん)を守る自信のなかった親鸞は、自然な人間のあり方や、在家に教えを伝える上で、不犯の戒めそのものに疑問を抱いたのでしょう。

親鸞が「和国の教主」と呼んで尊敬していた聖徳太子も妻帯していた在家の信者で、日本仏教はその始まりから、家庭を持つことを認める傾向が強かったように思われます。

聖徳太子の夢告を受けた親鸞は、夜明けとともに東山吉水の法然の草庵を訪ねます。そして岡崎の草庵に住んで、100日にわたり69歳の法然の元へ通って学び、7七年目に師と共に流罪に遭うのです。

妻をめとり子と共に

越後に流された親鸞はここで35歳から42歳までの壮年期を過ごし、恵信尼(えしんに)と結婚します。恵信尼は地元の地主の娘で、親鸞が家に来て教えを説いたり、親鸞のところに食べ物を運んだりしているうちに親しくなったのでしょう。やがて子供が生まれます。恵信尼は親鸞のことを観音菩薩の生まれ変わりと思っていたようです。

実は親鸞は、京都にいたころから女性と結婚し、3人の子供のいたことが分かっています。夫が妻の元を訪ね、生まれた子供は妻の実家が育てるという、古くからの妻問婚(つまどいこん)で、一夫一婦制はまだ一般化していませんでした。

配流から5年目の建暦元(1211)年に罪を許された親鸞は、2年間当地で布教した後、建保二(1214)年に関東での布教を目指し、妻と子を連れ弟子たちと共に常陸国(茨城県)に向かいます。

ここで、今の下妻市に「小島の草庵」を結び、その後、笠間郡の領主、稲田頼重に招かれて「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に布教活動を行います。この約20年間の布教活動が、後に浄土真宗として新たな宗派を興す基盤となったのです。

欲望と罪を見つめ

親鸞の主著で浄土真宗の基本の教えを説いた『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は、稲田の草庵で元仁元(1224)年に書き上げたとされます。この中で親鸞は、末法の世の中では、僧侶が妻をもち、子供をつくるのは当然である、と経典を引用しながら述べています。

当時、親鸞は恵信尼との間にできた子供たちと家庭生活を送りながら、『教行信証』を書いていたのです。親鸞は流罪に際し強制的に還俗(げんぞく)させられたので、厳密には僧侶ではありませんでした。その微妙な立場を非僧非俗——僧でも俗人でもないと言っています。

それまでの仏教は法力で国を守り、病気を退散させるものや学究的なものが中心で、いわば優れた人たちのための教えでした。それを、民衆の救いを第一義とした仏教に転換させたのが法然の浄土宗で、それをさらに進めると、普通の人が家庭をもち、日常生活を送りながら救われる道が必要になります。聖徳太子が目指した仏教における平等の実現で、その道を開いたのが親鸞と言えます。

人一倍、罪悪感の強かった親鸞は、欲望があるために罪を犯し、悩み苦しむ人も救われるような教えでないと自分自身も救われない、と思ったのでしょう。