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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

和気広虫——光明皇后にならい日本初の孤児院を開く

弟・和気清麻呂と共に天皇の血筋の乱れを防ぎ、今に続く日本という国のかたちを守った

平城京を揺るがす道鏡事件

奈良時代の後半、平城京を揺るがす大事件が起こります。大分にある宇佐八幡の神官が、「道鏡(どうきょう)をして皇位につかしめば天下泰平ならん」との神託が下りたと奏上してきたのです。

道鏡は女帝・称徳(しょうとく)天皇の信任が厚く、僧侶の最高位である法王の地位にありました。しかし、天皇家の血筋以外の者が皇位に就くのは、日本の歴史上なかったことです。日本という国のかたちを大きく変えてしまう危険性がありました。

問題は神託が正しいかどうかで、それを確認するため宇佐八幡に派遣されたのが和気清麻呂(わけのきよまろ)です。

清麻呂は769年、「わが国は開闢(かいびゃく)以来君臣の分は定まり、臣をもって君とすることは有り得ない。天つ日嗣(ひつぎ)には必ず皇緒を立て、無道の者はすみやかに除け」との神託を持ち帰ります。これにより、万世一系の皇統が守られました。

これが平城京を揺るがした一大スキャンダル、道鏡事件です。

自宅に孤児たちを預かる

ところで当初、称徳天皇により宇佐八幡へ赴く勅使に指名されたのは、清麻呂の姉・広虫(ひろむし)でした。天皇の近くに仕え、信頼されていたからです。

広虫は備前国(びぜんのくに)藤野郡(とうののごおり)(岡山県和気(わけ)町)の豪族の娘で、11歳の時、宮廷に仕える采女(うねめ)として平城京に上りました。広虫が仕えたのは、東大寺の大仏を造った聖武(しょうむ)天皇と光明(こうみょう)皇后の娘・阿倍内親王(あべのないしんのう)です。当時、内親王は23歳でした。

その後、広虫は役人の葛木連戸主(かつらぎのむらじへぬし)と結婚します。当時の平城京には、災害や騒乱で親を亡くした子供が多くいました。悲田院や施薬院(せやくいん)を設け、人々の救済活動に励む光明皇后を間近に見ていた広虫は、やがて夫と共に、自宅で孤児を預かるようになります。これがわが国初の孤児院とされます。

藤原氏から皇室に入った光明皇后は、夫が全国に国分寺と国分尼寺を建てたのに応え、国分尼寺の総本山として法華寺を建立していました。

東大寺の大仏が完成した749年に、阿倍内親王は孝謙(こうけん)天皇として即位します。利発さと素直さで天皇の信頼厚い広虫は、21歳で後宮(こうきゅう)に入り、翌年、18歳になった清麻呂が兵衛(ひょうえ)として出仕してきました。

孝謙天皇は758年に淳仁(じゅんにん)天皇に譲位し、光明皇太后の看病に当たります。光明皇太后が760年に崩御すると、孝謙上皇も病に冒されるようになり、そこに招かれたのが、呪力で病を治すと評判の道鏡でした。

上皇はやがて健康を回復したのですが、寵愛(ちょうあい)の度が過ぎたことで、独身女帝の道ならぬ恋として悪いうわさが立ちます。

ところが、若い淳仁天皇が面と向かって諫言(かんげん)したことで立腹した孝謙上皇は、異常な行動に出ます。法華寺に入って出家し、重要な国政は自らが行うと宣言したのです。広虫も出家せざるを得なくなり、髪を下ろして法均尼(ほうきんに)と名乗りました。

和気清麻呂が宇佐八幡へ

やがて淳仁天皇を廃した孝謙上皇は、再び即位して称徳天皇となります。道鏡は太政大臣禅師から法王へと上り、僧侶の立場を超え政治介入も強めました。

政変や争いが起こるたびに親を失う子供は増え、広虫が預かる子は80人を超えました。そんな広虫に、冒頭の神託を確かめに宇佐八幡に赴くよう、女帝が命じたのです。

しかし、夫を病で亡くし、40近くになった広虫に、九州までの長旅は無理でした。代わりに弟の清麻呂を遣わすことを願い出、認められます。

清麻呂が持ち帰った神託は、上述のように道鏡の意に反するものでした。怒った道鏡は、清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、広虫を広虫売(ひろむしめ)と改名させ、大隅国(おおすみのくに)(鹿児島県)と備後国(びんごのくに)(広島県)に流します。

もっとも、清麻呂は地元の人たちに温かく迎えられ、広虫は同郷の実力者・吉備真備(きびのまきび)の計らいで住まいを得て、近所の子供たちの世話をしながら平穏に暮らしました。

人の過ちを語らず

770年に称徳天皇が崩御すると、後ろ盾を失った道鏡は失脚し、即位した光仁(こうにん)天皇によって下野国(しもつけのくに)(栃木県)の薬師寺に左遷されます。清麻呂と広虫は元の身分を回復し、清麻呂は桓武(かんむ)天皇の下で、平城京から長岡京へ、さらに平安京への遷都事業に活躍します。

広虫は後宮で働きながら、自宅で孤児たちの世話を続け、70歳まで慈愛に満ちた生涯を送りました。

光仁・桓武両天皇は「自分に仕える多くの者は毀誉(きよ)さまざまだが、法均だけは他人の過ちを語るのを聞いたことがない」と広虫を称えたそうです。