機関誌画像

歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

光明皇后——悲田院、施薬院を作り慈善事業を始める

夫・聖武天皇を支えて大仏造立など仏教による国づくりを進め、国分尼寺の総本山・法華寺を創建した

夫に寄り添い佐保山陵に眠る

東大寺大仏殿の西側を北に抜け、少し歩くと天平時代の東大寺の伽藍(がらん)を偲ばせる唯一の遺構・転害門(てがいもん)があります。平重衡の兵火(1180年)や三好・松永の戦い(1567年)の戦火にも焼け残り、鎌倉時代に補修されましたが、基本的には奈良時代の建築で、国宝です。正倉院の西側に当たり、大仏殿の西北にある門で、吉祥の位置で害を転ずる意から転害門と呼ばれました。

その転害門から西に真っ直ぐに延びる道路が平城京の南一条大路で、門から法華寺までを佐保路と呼んでいます。西に向かい、道を少し歩いた北側の佐保山に聖武天皇陵があるからです。隣に寄り添うように光明皇后陵があります。さらに20分ほど歩くと、光明皇后が父・藤原不比等の没後、その屋敷跡に創建した法華寺に行き着きます。

平城遷都1300年祭が行われた昨年5月、法華寺で光明皇后の「1250年大遠忌」が営まれました。

光明皇后は仏法を篤く信仰し、夫の聖武天皇とともに東大寺の大仏造立に力を尽くしたほか、50巻に余る経典を書写しました。皇太子妃時代から、悲田院を設けて貧しい人たちを救済しています。

光明皇后は皇族でない藤原氏から皇后となった最初の女性であり、いわば藤原氏を背負って朝廷で生きていました。正倉院に収められている『楽毅論』は中国の有名な書家・王羲之(おうぎし)の『楽毅論』を手本に書いたもので、力強い筆遣いで知られていますが、そこには、不比等の三女という意味の「藤三娘(とうさんじょ)」という署名を残しています。

政治力も発揮し権力を掌握

光明皇后が皇太子時代に妃(きさき)となった聖武天皇は、不比等の長女で文武天皇の宮子夫人の子供なので、皇后のおいに当たります。やがて二人の間に阿倍内親王(あべのないしんのう)(孝謙天皇)と基親王(もといのみこ)が生まれます。724年に夫が即位すると夫人となり、基親王は皇太子に立てられますが、翌年病死したことで、長屋王の変が起こります。長屋王は天武天皇の皇子・高市皇子(たけちのみこ)の子供で、藤原氏系との皇位継承争いです。藤原氏側が勝利して729年、光明皇后は民間人として異例の皇后の称号を与えられます。

女性の最高位に就いた光明皇后は、皇后宮職に施薬院を置き、私財を投じて薬草を集め、病者に施します。その背景には、当時、疫病の流行などで多くの人が命を落としていたことがあり、光明皇后も4人の兄を疫病で亡くしています。

聖武天皇が全国国分寺の総本山として東大寺と大仏の建立を始めると、光明皇后は国分尼寺の総本山として法華寺を建立します。夫の仕事を助けながら、次第に政治的な力も持つようになった皇后は、749年に娘の阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると、中国にならって皇后宮職を改め、皇太后の命令を実行する機関・紫微中台(しびちゅうだい)を設置し、おいの藤原仲麻呂に長官を兼ねさせることで、政治の実権をほぼ掌握します。

756年に聖武天皇が亡くなると、天皇遺愛の品々を「身近にあると思い出して悲しいから」と東大寺に献納しました。これが正倉院の始まりです。

758年に天武天皇の皇子・舎人親王の七男・淳仁(じゅんにん)天皇が即位した後、760年に亡くなり、佐保山陵に聖武天皇に並んで葬られました。

病人の膿を口で吸い出す

光明皇后は仏教への信仰では聖武天皇より熱心で、大仏造立などでは天皇よりも積極的だったとされます。法華寺には仏教の庇護者である光明皇后のいろいろな伝説が残されています。中でも有名なのは、ハンセン病者の膿(うみ)を自ら口で吸い出した話です。

光明皇后は病人の治療のために法華寺に建てた「からふろ」で、千人の民の汚れを拭うという願を立てました。ところが、千人目の人は皮膚から膿を出すハンセン病者で、皇后に膿を口で吸い出してくれるよう求めます。意を決した皇后が病人の膿を口で吸い出すと、たちまち病人は光り輝く如来の姿に変わったというものです。

現在の「からふろ」は江戸時代に造られたもので、今も年に一度、蒸し風呂が用意され、ファンの人たちが光明皇后の威徳を偲んでいます。

また、光明皇后は、都大路に並木を植えるに際し、貧しい人たちの非常食になればと、モモとナシの木を選んで植えさせたとも伝えられます。

光明皇后は、光り輝く美しさから光明子と言ったとも伝わり、その姿を写したのが法華寺の本尊、十一面観音とされています。

法華寺の名前は女人成仏を説く法華経に由来するとされ、正式名称は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)です。元は真言律宗に属していましたが、1999年に同宗を離脱し光明宗を称しています。