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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

直江兼続とお船——上杉家を支えた名宰相とその妻

小さい頃から遊び友達だった二人は不思議な巡り会わせで夫婦になり、上杉家の危機を共に乗り越えていった

文人で愛妻家

直江兼続肖像画
直江兼続像(米沢市上杉博物館蔵)

2009年の大河ドラマ「天地人」で人気になった直江兼続は戦国武将きっての文人で愛妻家でした。上杉謙信にならい学問を好んだ兼続は書物を愛蔵し、貴重な文献の印刷・出版も行っています。中には、宋版『漢書』『後漢書』、唐代の医学書『備急千金万』など中国でも失われ、唯一上杉家に残されている書物もあります。

周りの武将たちが「書物をいくら集めても田の肥やしにもならぬではないか」とからかうと、兼続は「これは頭の肥やしになりまする」と笑って答えたそうです。

兼続は貴重な文献を筆写し、文禄・慶長の役では、朝鮮の漢籍や銅活字を集め持ち帰りました。この活字をもとに京都で刊行したのが、後に『直江版文選』と呼ばれる60巻30冊です。江戸儒学の礎を築いた藤原惺窩(せいか)は、「近世、文を戦陣の間に好める者は、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広道と上杉謙信あるのみ」と書き残しています。

元和五年(1619)に兼続が60歳で亡くなった後、妻のお船は『直江版文選』を再版しました。夫の志を知る妻ならではの功績です。

兼続の力量は、豊臣秀吉が「天下の仕置きを任せられる男は直江兼続と小早川隆景なり」と評し、兼続を召し抱えようとしたほどです。その誘いを兼続は、幼少時より共に禅寺で修行した上杉景勝への忠誠から断っています。

兼続が愛妻家だったのは、初婚の夫を亡くしたお船の婿に入る際、「側室は持ちませぬ」と約束し、実行したことでも明らかです。兼続はお船より三つ年下の幼友達でした。幼い頃より、美しいお船を姉のように慕い、やがて恋心に変わっていきます。

お船の婿に

兼続は現在の新潟県南魚沼市の坂戸城下に樋口兼豊の長男・与六として生まれました。樋口家は木曾義仲の重臣の子孫でしたが、その後、落ちぶれて、父・兼豊は謙信の重臣・長尾政景(まさかげ)の家臣として、城の薪奉行を務めていました。政景は精強な上田衆を擁することから、上杉家臣でも一目置かれる存在でした。

幼少の頃から聡明だった与六は、謙信の姉で政景の正室・仙桃院(せんとういん)に見込まれ、政景の次男・顕景(あきかげ)の小姓に取り立てられます。政景が池で溺死した後、与六と顕景は謙信の居城・春日山城に連れて来られます。この顕景が後に謙信の養子から後継者となる上杉景勝です。

一方、お船は今の長岡市の与板城主・直江景綱の娘として生まれました。景綱は謙信の筆頭家老で、春日山に屋敷を構えており、お船はそこで育ちます。この時代、有力武将は妻子を主君の城下に住まわせ、人質とするのが常でした。こうして、幼い与六とお船は出会い、一緒に遊ぶようになります。

お船は女ながら武芸や馬術が大好きで、年下の与六は格好の遊び相手でした。景綱は男勝りのお船に政治向きのことも話すようになり、「おまえが男子なら良き跡継ぎになったものを」と慨嘆していました。景綱には男児がいなかったのです。

景綱は成長したお船の婿に長尾藤九郎を迎え、直江信綱と名乗らせます。景綱が死去すると信綱が家督を相続しますが、恩賞をめぐる内紛で、春日山城内で毛利秀広に殺されてしまいます。

直江家の断絶を心配した上杉景勝は、兼続をお船の婿にして直江家を相続させることにします。憧れのお船の婿になるのは兼続の願いでもありました。直江兼続の誕生です。名家を継いだことで重みを増した兼続は、織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康と覇者が移り変わっていく戦国時代に、上杉家を巧みに経営していきます。

越後から会津、米沢へ

慶長三年(1598)、景勝は秀吉により越後から会津百二十万石に加増移封され、兼続は米沢に三十万石が与えられます。これも、秀吉が兼続を重んじたからです。

秀吉の死後、頭角を現してくるのが家康です。石田三成と親交を結んでいた兼続は、関ヶ原の戦で西軍に味方しますが、天下の覇者となったのは東軍の家康。上杉家は会津から出羽米沢三十万石に減移封されてしまいます。

兼続は治水事業を進めて新田を開発し、町の整備や産業の振興も進め、実質五十一万石と言われるまでに広げました。これが、後の上杉鷹山(ようざん)の改革の手本となります。

この間、お船は京都や江戸で実質的な人質生活を送りながら、景勝の正室・菊姫の世話をし、景勝唯一の子・定勝の養育を担当します。

二人は一男二女に恵まれますが、長男は早世。その後、家康の重臣・本多正信の次男・政重を長女の婿養子に迎えますが、いずれも早世し、直江家は断絶してしまいます。これは、厳しい藩財政のため、兼続自身が断絶を望んだからとも伝えられます。

兼続亡き後も上杉家におけるお船の影響力は大きく、米沢藩主となった定勝に厚遇されます。お船は81歳の長寿を全うし、死後は兼続と共に米沢市にある直江家菩提寺の徳昌寺に葬られました。