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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

宗武志と徳恵姫——歴史に翻弄された日韓家庭

戦前、日本と韓国の一体化を進めようとして誕生した日本伯爵家と韓国王家の結婚。しかし、若い夫婦に歴史の荒波が……

日本と韓国を結ぶ結婚

戦国時代から江戸時代にかけて対馬藩主を務めた宗家(そうけ)の菩提寺・万松院(ばんしょういん)の近くに、李王家宗伯爵家御成婚記念碑が建っています。夏になると、周りに韓国の国花ムグンファが白い花を咲かせます。

朝鮮王朝最後の王となった高宗の王女・徳恵(トクヘ)と宗家の第38代当主・宗武志(そうたけゆき)は昭和6(1931)年、東京で結婚式を挙げました。武志は当時、東京帝国大学でイギリス文学を学んでいました。

その前には、高宗の七男・李垠(イウン)と梨本宮家の方子(まさこ)が大正9(1920)年に結婚しています。明治43(1910)年に併合した韓国との絆を深めようとした、悪く言えば政略結婚であることには違いありません。

徳恵姫は京城(ソウル)の日本人学校6年生、13歳だった大正14(1925)年に東京の学習院に転校します。日本の王族と同じような教育を受けるためです。しかし、王女として特別な扱いを受けていた環境が一変し、無理に生母から引き離され、言葉が通じず、生活習慣も違うことから、徳恵姫は精神を病んでしまいます。

昭和4(1929)年に生母の梁(ヤン)貴人が48歳で病死した時には、葬儀のため韓国に帰国できましたが、すぐに日本に戻されました。生母の死後、徳恵姫はさらにやつれていったのです。

ところが徳恵姫が19歳になった時、不思議に病状が回復し、元気な笑顔を見せるようになりました。そこで日本政府は、宗武志との結婚を進めたのです。

結婚式のあった年の末、対馬を訪れた新婚夫妻を島民が大歓迎したことは言うまでもありません。当時、対馬で働いていた韓国の人たちも大喜びしました。島民たちは募金して清水山城の跡に「御成婚慶祝」の石碑を建て、競うように韓国の人たちが八幡前広場に建てたのが冒頭の記念碑です。刻銘の下には、寄付した人たちの氏名も彫られています。

二人の間には翌年、長女の正恵(まさえ)が生まれ、政治的な思惑を超えて、愛情に満ちた幸せな家庭が営まれていました。

精神を病んだ徳恵姫

幸せな日韓家庭が一転して不幸に陥るのは、産後の肥立ちの悪さなどから、徳恵姫の精神病が再発したことが原因でした。病状は次第に悪化し、寝たきりの生活が続くようになります。そして、東京郊外の精神病専門の松沢病院に入院しました。

在学中、北原白秋の門下生となった武志は、廣池千九郎が開いた道徳科学専攻塾で道徳を教えながら、東大大学院で英語を学び、卒業後は内閣情報局で英訳の仕事を務め、後、陸軍二等兵として軍務に就きます。周りの雑音を気にせず、武志は誠実に徳恵をいたわり続けていました。

二人の境遇が一変したのは昭和20(1945)年の敗戦です。伯爵、王族の身分はなくなり、普通の市民として生きていかざるを得なくなります。武志は貴族院議員を務めた後、麗澤大学教授となり、その後、外国語学部長や廣池学園常務理事などを歴任しながら、詩人としても活動します。

戦後、日韓両国の関係が悪化したこともあり、昭和30(1955)年に二人は協議離婚しました。徳恵は梁徳恵に戻ります。

当時、明治大学英文科を卒業して22歳になっていた娘の宗正恵は、音楽を通して知り合った日本人男性と結婚しますが、精神病の母がいることが知られて離縁され、そのまま行方不明になってしまいます。

昭和36(1961)年まで松沢病院で暮らした徳恵は、同年、念願の帰国を果たしますが、病状は回復しないまま、平成元(1989)年に永眠しました。昭和60(1985)年に逝った武志の後を追うように……。

結婚記念碑を復元

二人の結婚記念碑は昭和36(1961)年頃、道路拡張に伴い広場から撤去され、万松院の境内に保管されていました。

それを復元させようという「記念碑復元実行委員会」が対馬と韓国の双方で発足したのは平成13(2001)年のこと。やがて、金石城の跡地である清水ヶ丘公園の一角に復元されました。

ところで、武志は昭和39(1964)年に発刊された「新対馬島誌」に、次の詩を贈っています。


島も痩せたが 友も痩せた

魚形を削りながら だまって潮を見る

だが俺には夢がある

言いさして友は笑う

深夜 世界図を開く コンパスを取る

島を軸にぐるっと廻す


記念碑復元に対馬を代表して活動した郷土史家の永留久恵氏は「あの詩によって、対馬から世界を観る眼と、世界から対馬を観る史眼を啓発された」と書いています。不幸な歴史と運命にもてあそばれながら、ある時期、日韓友好を体現した二人の愛情は、今も対馬と韓国の人たちの心に生きているのです。