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誌上講演会

教育評論家 棚橋 嘉勝

家庭で子供の宗教性を養う

祈りは私たちの心を集中させ、行動を正してくれます。スポーツや試験など深刻な局面では、誰もが自然に祈るような気持ちになります。神仏など信じない人でもそんな気持ちになるのですから、それが人間の自然な感性なのでしょう。

小さいころから宗教性を

犯罪の低年齢化や家庭崩壊が非常な勢いで進んでいるなか、家庭のあり方、学校教育のあり方が見直されようとしています。親や教師は、社会生活のなかでのルールなど様々なことを、子供に身に付けさせなければなりません。

「三つ子の魂百まで」と言われますが、道徳観や神仏の加護の下にあるという宗教心は、特に幼児期から養うことが大切です。第一に家庭での親の責任は重大であり、学校教育では、幼・小の段階で最も力を入れるべきでしょう。

教育の根幹をなすのが道徳教育ですが、実際には道徳の時間が軽視され、ほかの授業や行事に充てるという例が少なくないようで、形骸化しているのが現状です。

人はともすれば、目に見えるところは飾り立てるが、中身は空っぽということが多いのです。その上、自分の築き上げた名声や業績、富などをついつい誇り、おごってしまいがちです。人格の向上を願うなら、これらを造化の神仏のわざと比べ、反省心を持つようでなければなりません。

「人間よ、一体お前たちは一人で自惚(うぬぼ)れているほど賢いものか」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)と自戒し、自分さえよければよしと小さな利害にとらわれず、永遠なる彼方、遥かなる彼方に向けて無心に努力する、見えないところを大切にする、それが宗教心だと思います。

昔は各家庭に神棚や仏壇があり、朝に夕にその前で手を合わせることによって、神仏を畏れ、先祖を崇拝する心を養ってきました。それが、人間として生きていくうえでの「心の教育」の大切な基盤となっていたのです。ところが、マンション住まいが増えたことなどから、家庭から神棚や仏壇がなくなりつつあるのは、子供の心を育てる上で重大な問題となっています。

「三悪道をのがれて人間に生まるることは大いなるよろこびなり」と浄土教の僧、源信は述べています。自分で「生きている」のではなく、「生かされている」という考え方が、宗教心の始まりですし、宗教の一番大切な土台となるものです。

しかし、今日では「生命の尊重」も忘れられがちです。華やかな物質文明の中で、生かされていることへの喜びも感謝の気持ちも持たず、ただ時間を浪費している人の何と多いことでしょうか。その多くは、自分のみで生きていると過信し、人として生まれてきたことへの感謝の念などありません。野の草花より優れた人間としての生を受けたことに、神仏に感謝する気持ちがあれば、人に対する慈愛の念も生じてくるものを、その感謝がないので、人への思いも希薄になってしまっています。

多くの日本人がそうなってしまったのは、本をただせば、家庭において天の恩寵(おんちょう)を教えることを忘れ、学校において道徳・宗教教育を軽視してきたからでしょう。

改正教育基本法では、宗教教育の項で、自民党が求めた「宗教的情操の涵養(かんよう)」の表現は回避され、第十五条で「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」とあります。ところが、二項では「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」と規定されています。

公立学校においては特定の宗教教育や宗教的活動はできないでしょうが(宗教教育を創立の理念としている私立小学校98校、中学校249校、高校347校は別)、一番大切なことは、異なる世代や年齢層との断絶を避けるため、命の尊さや絆の大切さ、他者や自然を尊ぶ心を学ばせることです。「人として大切なこと」の継承が、広く、絶え間なく行われる社会を構築するために、宗教に対して寛容な精神を持つことの重要性を教えるような宗教教育を行うべきです。

子供たちが宗教心や信仰心を持つことによって、優しさや思いやり、感謝と奉仕、礼節を身に付け、善悪や正義と不正義の判断力を高めることは、人間らしく生きる上で大切なことです。人間関係で嫌なことがあっても、”キレ”てしまわず、暴力を振るうなど人の道を踏み誤ることの歯止めとなる〝心.を養うことにもなるのではないでしょうか。

最近、意味のない殺人事件を犯してしまう若者が増えているのは、道徳の基本である宗教心を養う教育が、家庭でも学校でも行われていないことに、大きな原因があるように思うのは私だけではないでしょう。

人は誰でも身近な人、愛する人の死に遭遇します。大切な人とも、いつかは別れる時が来るのだということを、子供にも体験させておく必要があります。それが、命の大切さを実感的に考えるきっかけになるからです。

ですから、私は親族などの葬式には、子供同伴で参列することを勧めています。親御さんの中には、勉強に差し支えるから、ショックを受けると困るからと、参列させない人もいますが、子供の人格形成の上では、むしろマイナスです。

子供も、小学生高学年になるころまでには、死について考えるようになります。どうして自分がこの世に生まれたのか、死んだらどうなるのか、いくら考えても結論の出ない疑問です。いろいろな宗教や哲学ではそれなりの答えを用意していますが、大切なのは自分で考えるということです。死の問題は教えられて分かるものではなく、実存的に自分で獲得するものだからです。その格好の機会が大切な人の死に遭遇することなので、葬式に参列し、遺体に触れ、お棺に花を入れるなど体験することが、自分なりの死生観をつくる原体験となるのです。

祈りは心を集中させ、行動を正す

そもそも宗教が生まれたのは、死者を悼む気持ちからだとされています。イランで発見された古代人の骨には、花を手向けた跡がありました。ですから、それぞれの宗教では、死んだらどうなるかが大きなテーマとして説かれています。イスラム教のコーランでは、聖戦で殉教すると天国に行くと書かれているのが自爆テロを誘発していると問題視されますが、テロの原因としてはむしろ貧困や破壊的な思想が大きいので、そこだけ強調するのは偏った見方でしょう。

死後の世界は、そこへ行ってからもう一度帰ってくることは不可能なので、どんなに考えても結論は出ません。要するに「死生観」として、自分なりに納得するしかないのです。ですから釈迦や孔子は死後については語りませんでした。それよりも、生きている今という現実を大切にしなさいという考えです。

死は、一人称(私自身)の死、二人称(身近な人)の死、三人称(関係ない人)の死の三つに分けて考える必要があるとされています。まず、私自身の死は、生きている私が体験することはできません。関係ない第三者の死も、私に大きな影響を与えることはありません。問題なのは身近な人の死です。とりわけ深く愛した人の死は、残された者に大きなショックを与えるので、その死をどう理解したらいいのか、深く考えざるを得なくなります。それが宗教の意味を深め、発展させてきたとも言えます。

合理的で実践的な欧米社会では、死に臨んだ人生の最後の時間の質を高めようと、ターミナルケアやホスピスが作られました。また、愛する人を失った喪失感がもたらすマイナスの影響を弱め、残された人がより良い人生を歩みだせるよう死生学や、それに基づくグリーフ・ケアやグリーフ・カウンセリングが発達し、日本にも受け入れられています。そこでの基本は、その人なりの宗教や死生観を大事にしながら、心の底から納得できるようにサポートすることです。そういう役割を果たすものとして、現代社会において宗教を見直していく必要があります。

お盆やお彼岸、命日などには、亡くなった人のお墓に、子供を連れてお参りするのも、家庭でできる大事な宗教教育です。そうして、祈ることを教えましょう。今の時代、多くの人が祈りを忘れてしまっています。祈りは私たちの心を集中させ、行動を正してくれます。「無宗教」とか「無神論」とかいう人がいますが、基本的には無宗教ということはあり得ないと私は思います。なぜなら、スポーツや試験など深刻な局面では、誰もが自然に祈るような気持ちになります。神仏など信じない人でもそんな気持ちになるのですから、それが人間の自然な感性なのでしょう。

そうした宗教性の基になるものを、家庭で培うのが宗教教育です。それには、親自身に祈る習慣や命を尊ぶ心がなければなりません。その意味では、宗教教育が必要なのは大人なのかもしれません。そんな自戒の思いを持ちながらも、子供の心に宗教性が育つよう努めましょう。