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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

山内一豊と千代 —— 戦国時代を夫婦で助け合って生き抜いた

従順なだけの妻ではなく、愚直なまでに真面目な夫を、時には励まし、導いて

母の目にかない一豊の妻に

今では死語のようになった「内助の功」という言葉は、山内一豊(やまのうちかずとよ)の妻・千代が、一豊の馬を買うために持参金の黄金十両を差し出し、その馬が織田信長の目にとまり、夫の出世を助けたという話から来ています。江戸時代中期の新井白石の『藩瀚譜(はんかんふ)』などに書かれていますが、本当かどうかははっきりしません。

2006年のNHK大河ドラマ『功名が辻』でもその場面がありましたが、千代はただ夫に尽くすだけの従順な妻ではなかったようです。愚直なまでに真面目な夫を、時には励まし、導きながら、二人で戦国の世を生き抜いたというのが実像のようで、ドラマでもそう描かれていました。持参金を差し出せたのも、結婚しても妻の財産は別という当時の慣習があったからで、戦国時代の女性は意外と自立していたのです。

一豊は天文14年(1545)、尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)に生まれました。一豊の父・盛豊は岩倉織田氏の家臣でしたが、清洲の織田信長と戦い、父と兄が戦死したため流浪します。

千代は弘治3年(1557)、近江坂田郡(今の近江町)に浅井氏家臣の若宮友興(ともおき)の娘として生まれたとされます。千代が10歳の時、友興が戦死したため、縁者の美濃の不破氏に預けられ、その後、故郷に戻り、近くで暮らしていた一豊の母・法秀院に裁縫などを習います。利発で気丈な千代を気に入った法秀院が、一豊の妻に迎えたのです。

一時、近江国の山岡景隆に仕えた一豊は、やがて木下秀吉(後の豊臣秀吉)の与力となります。朝倉氏との金ケ崎の合戦で、顔に重傷を負いながら敵将を討ち取り、信長に認められ、天正元年(1573)に近江国浅井郡唐国(現在の滋賀県虎姫町)で四百石を与えられたのが出世の始まりです。

この間、夫婦は長女・与祢(よね)を授かります。一豊36歳、千代24四歳と、当時としてはかなり遅く、その後も、二人は子宝に恵まれませんでした。

信長が本能寺の変で亡くなった後、一豊は秀吉から、秀吉の旧領・長浜に千石の領地を与えられます。ところが、ここで大地震に襲われ、一人娘の与祢と家臣十数人を失います。その数年後、千代は城下に捨てられていた男児を拾い、「拾」と名づけて養育します。拾は山内家の家督は継がず、武士を捨てて京都の妙心寺に入り、僧・湘南となりました。

妻の機転で夫が出世

秀吉の家臣として活躍した一豊は天正18年、遠江国掛川五万石の城主になります。ここでの10年に及ぶ統治で、城の修築と城下町づくりを行い、大井川に堤防を築いたりしたことが、後の土佐での整備に役立ちます。

秀吉の下で出世しながら、掛川城が江戸と大坂の通り道にあったことから、一豊は上洛時の接待などで徳川家康と親交を深めました。関ケ原の戦いで一豊が家康側に付いたのは、天下人としての器量を見定めたからでしょう。

会津征伐に向かった家康は、大坂で石田三成が挙兵したことを知り、小山で軍議を開きます。武将の中には秀吉子飼いの者も多く、しかも妻子が大坂で人質になっていました。家康は三成側に付いても構わないと言い放ちます。その席で一豊は、掛川城を家康に明け渡すと発言し、ほかの大名たちもこれにつられたことで、大勢が決まったのです。

さらに、家康の心証を良くしたのが、大坂の千代から送られてきた密書でした。三成側から大坂屋敷の一豊宛に届けられた書状と、それに添えた千代の手紙の二通を文箱に入れ、封がされていました。千代は一豊には別の手紙を書き、こよりにして笠の緒に隠し、文箱と一緒に忠臣に託して届けさせたのです。

笠緒の手紙を読んだ一豊はそれを燃やし、封をしたままの文箱を家康に渡しました。家康は、一豊の潔さと、また家康に忠節を尽くすよう記した千代の手紙を読み、一豊への信頼を深めます。

そのため、関ケ原の戦いでは大した軍功がなかったにもかかわらず、戦後の論功行賞で、一豊は土佐二十四万石の国主となりました。

墓の形も相思相愛

土佐は険しい山に隔てられた国で、かつては「鬼の住む国」とさえ言われていました。戦国時代、長宗我部国親(くにちか)とその子元親は土佐を統一し、さらに阿波、讃岐、伊予を攻め、ついには四国を制覇しました。

その原動力となったのが、一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる農民武士。平時には田畑を耕しているが、動員がかかると一領(ひとそろい)の具足を携え、はせ参じたのです。そのため、年貢は免除されていました。

家臣団を連れて乗り込んだ一豊は、この一領具足の抵抗にあって苦労します。司馬遼太郎の『功名が辻』第四巻には、相撲大会を口実に一領具足の指導者をおびき出し、銃で皆殺しにするなどの逸話が書かれています。

一領具足の統治に成功したのが二代目藩主・忠義で、一豊の弟・康豊の子。一豊が酒に弱かったのに比べ忠義は大酒飲みで、「いごっそう」と呼ばれる土佐の男らしい豪胆な性格でした。藩政改革に手腕を発揮し、一領具足には開墾した新田を与え、郷士として武士の待遇をします。親子二代で高知城を完成させ、堤防を築いて湿地帯を埋め立て、高知市の基礎を造ったのです。

戦国武将には珍しく、一人の妻を愛し続けた一豊は、土佐に入って五年目の慶長10年(1605)に60歳で亡くなります。千代は見性院(けんしょういん)と名乗り、京都に屋敷を構え、秀吉の正妻・北政所とも親交を続けました。夫の死後12年の元和3年(1617)、61歳の生涯を閉じます。

一豊と千代の墓は妙心寺大通院の霊屋(おたまや)にあります。卵塔と呼ばれる卵形の墓碑は形も大きさも同じで、死後も相思相愛の夫婦でいる様子がしのばれます。大通院にはあの湘南がいて、晩年の母を世話し、父母の菩提を弔いました。