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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

平清盛と時子(1)——武士の時代を切り開いた夫婦

夫は力で、妻は愛で貴族社会を戦った

武士の誕生

NHK大河ドラマ「平清盛」が始まりました。平安時代末期、混乱した貴族政治の時代を終わらせ、武士の世を開いた人物として、平清盛は源頼朝と並び日本史に大きな足跡を残しています。しかし、平氏は武士にありながら貴族化した、という批判もあります。そこで、清盛をめぐる人たちを紹介しながら、当時の歴史をたどってみましょう。

まず、平氏や源氏という武士集団はどのようにして生まれたのでしょうか。奈良に成立した大和政権は、豪族たちの連合政権でした。それが、中国の律令制度を取り入れ、中央集権国家として統一されるのは、701年の大宝律令からです。それまで豪族の私有地だった田畑は国家の所有とされ、農民らに税が課せられるようになります。有力な豪族たちは官僚として天皇に仕え、貴族となっていきました。

ところが、農業は天候不順や病虫害により不作の年もあります。税が納められない農民の中には、土地を捨て、逃亡する人も出てきます。彼らが救いを求めたのが、有力な貴族や寺院、神社です。貴族や寺社は彼らを使って土地を開墾し、荘園と呼ばれる私有地を広げました。

荘園は私有が認められた土地ですが、納税の義務はありました。ところが、天皇に対する影響力を強めた貴族や寺社の荘園には、無税の特権を得るところが出てきました。平安時代末期になると、国土の大半が無税の荘園になったという記録もあり、政府が疲弊したのも無理はありません。

荘園が大きくなると、それを守る必要が出てきます。今のように警察のない時代ですから、財産は自衛するしかありません。そこで、領主が農民らに武器を持たせたのが、武士の始まりです。寺社では僧や神人(じにん)が武装しました。

もう一つは、源氏や平氏という名門武家の誕生です。世界最古の小説『源氏物語』の主人公・光源氏が、臣下に降った桐壺帝の第二皇子だったように、皇位を継承できない子供を皇族から外すことが行われました。その際、天皇は姓を与えます。それが源氏や平氏の始まりです。都で職に就けないと、関東などの地方に行って未開の地を開墾しました。

余談ながら、日本の天皇には姓がありません。臣下になって初めて姓を持つのです。日本がお手本にした中国の皇帝には姓があり、王を滅ぼして新しい王朝を起こすことを易姓革命と言います。易とは変えるという意味です。

日本の臣下は、藤原氏や平氏、源氏など強大な権力を手にしても、自らが天皇になろうとはしませんでした。ですから、万世一系の男系天皇が今日まで継続しているのです。そうしたのは、天皇が古代から豪族の長たちの中でも祭王の役割で、信仰の対象だったからだとされます。

貴族は天皇に対する影響力を強めるために、娘を天皇の后(きさき)にしました。后が皇太子を産み、天皇になれば、その外祖父として影響力を及ぼすことができるからです。

古代社会は天皇の后は皇族から迎えるという身分社会でしたが、初めて臣下から后になったのは、藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)、後の光明皇后です。実は、平氏が権力を握ったのも同じで、清盛は娘の徳子を高倉天皇の后にし、二人の間に生まれた皇子が安徳天皇です。

女の戦

武士の中でも源氏は関東で勢力を伸ばしたので、平氏は中部から西を拠点にします。清盛は伊勢平氏と言われるように、伊勢が本拠です。清盛の父・忠盛が院政を敷いた白河法皇に重用されたことで、平氏は勢力を伸ばしました。

白河院が自分の子供をはらんだ祇園女御(一説では、その妹の白拍子)を忠盛に妻として授け、生まれたのが清盛だとされています。なお、天皇の父が上皇(じょうこう)で、出家すると法皇(ほうおう)と呼ばれました。

平安時代中期から、不思議なことに朝廷は軍隊を持たなくなります。古代には天皇や皇太子が直接兵を率いて戦争をしていたのですが、平和な時代が続くと、軍事を担当する役職に就く貴族がいなくなったのです。当然、都の治安も悪くなります。そこで、武士を雇い、警護や治安に当たらせたのです。

忠盛が出世したのは、交易を妨げる海賊たちを征伐したからです。嫡男の清盛も、父と一緒に活躍しました。しかし、それだけでは天皇に使われているだけで、身分を上げるには皇室と縁組みしなければなりません。その役割を果たしたのが、清盛の妻・時子(ときこ)です。

時子の父・時信は貴族として都に居ついた平氏の一族で、娘の滋子(時子の妹)が後白河院の后になり、高倉天皇を産みました。天皇の寵愛を受け、男子を産むのは、昨年の「江(ごう)」ではありませんが、女の戦(いくさ)です。清盛はそんな時子を妻に迎えたことで、貴族社会で上昇気流に乗りました。