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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

平清盛と時子(2)——親子二代で臣下の頂点に

女性たちが結んだ情愛の絆

北面の武士から殿上人へ

京都・祇園の八坂神社にある「忠盛灯籠」には、次のような話が伝わっています。

五月雨の降る宵、祇園女御(ぎおんのにょうご)に会うためこの辺りに来た白河法皇は、女御の家に近いお堂から怪しく光るものが現れたのを目にします。鬼に違いないと思った白河院が、供の平忠盛に射殺するよう命じたところ、平忠盛は殺さず生け捕りにしました。それは灯籠に灯明をともしていた老僧で、殺害したら大変なことになっていました。忠盛の冷静な振る舞いに感心した白河院は、褒美に「生まれた子が姫ならわが娘とする。男ならおまえの子として武士に育てよ」と言って、身重の祇園女御を下されたのです。

『平家物語』や吉川英治の『新・平家物語』は、その女御から生まれたのが清盛だとしています。大河ドラマは少し違いますが、清盛の出生には諸説があります。いずれにせよ、忠盛が清盛をわが子とし、平家の嫡男として育てたことは確かです。

大河ドラマの第4話では、「わしは王家の犬で終わりたくないのだ」と語る忠盛に、清盛が初めて父の真意を知る場面があります。

身分差別の厳しい時代、武士は貴族に仕え、手足として働くものだとされていました。しかし、忠盛は武芸だけでなく和歌や舞いなど貴族の教養と作法を身に付け、院を警護する北面の武士から出世していきます。そして、白河院の死後、院政を継いだ鳥羽上皇に観音堂を献上した功績で、ついに武士では初めて宮中に参内できる殿上人となったのです。

寺を建てるほどの財力は、任命された越前守や備前守などで、一定の租税を納めれば、それ以上は蓄財できた上に、交易でも利益を得ていたからです。清盛が行ったことのモデルは、既に忠盛が始めていました。

それまでは、父を権力に媚びる者としてしか見ていなかった清盛は、乱れた貴族社会を正すために、武士が権力を握るべきだと考え、そのための準備を着実にしていたことを知り、自らその道を継ぐ決意をするのです。

清盛を助けた妻と娘たち

忠盛は清盛を貴族社会に入れるため、同じ平家でも武士ではなく公家の流れを汲み、鳥羽天皇に仕えていた平時信の娘・時子とめあわせます。この時子が、鳥羽上皇の子(実は白河法皇の子) 崇徳(すとく)天皇の同母弟・雅仁親王(後の後白河天皇)の子・守仁(もりひと)親王(後の二条天皇)の乳母(めのと)となったことで、清盛と後白河天皇が近い関係になるのです。

当時、上流階層の母親は、産んだ子を自分で育てることはなく、乳母に任せていました。乳母は単に育児だけでなく、子供を立派な息子、娘に育て上げ、さらにはその先の出世や嫁ぎ先にまでかかわるので、大きな力を持っていたのです。ですから、乳母は生母の姉妹や近親、家来の妻で、財力も教養もある女性が選ばれていました。

時子が育てた守仁親王は、大勢の皇子の中でもひときわ聡明で、12歳の頃に皇位継承者に決まりそうになります。ところが、父の雅仁親王を飛び越して天皇になるわけにはいかないので、「遊芸の皇子」と呼ばれ、皇位を継ぐはずがないと思われていた28歳の雅仁親王を、一時的に天皇にすることにしたのです。

ところが、その後白河天皇が意外に政治力を発揮するようになったので、憤懣(ふんまん)を募らせたのが崇徳上皇です。なぜなら、崇徳上皇はわが子の重仁親王を天皇にしたいと願っていたからです。

こうした皇位継承争いに、藤原家内部の権力争いが絡み、後白河天皇と崇徳上皇がそれそれ配下の武士を使って争ったのが1156年の保元(ほうげん)の乱です。後白河に付いたのが藤原忠通と平清盛、源義朝ら、崇徳側は藤原頼長と平忠正、源為義・為朝親子らです。忠正は清盛の叔父、為義は義朝の父なので、平氏も源氏も分裂して争うことになります。

乱は後白河側の圧倒的な勝利となりますが、これで終わりではありませんでした。源義朝は父と弟を敵として戦ったにもかかわらず、平清盛の出世に比べ冷遇されたからです。そこに、上皇の側近になった藤原信西(しんぜい)と藤原信頼(のぶより)の対立がからみ、争いが再燃したのが1159年に起きた平治(へいじ)の乱です。

清盛が熊野参りで京を離れたすきに、義朝は信頼と組んで兵を挙げ、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西を殺害しました。ところが、急ぎ京に戻った清盛は、天皇と上皇を救い出し、義朝軍を打ち破ります。

義朝は鎌倉に落ち延びる途中、尾張で家人に謀殺されます。その子・頼朝が殺されずに伊豆に流され、義経が京の鞍馬寺へ預けられたのは、清盛の継母・池禅尼いけのぜんにの嘆願と清盛の寛大さからです。

貴族に使われていた武士は、二つの戦を通して貴族を凌駕(りょうが)するようになり、実質的に清盛が政治を取り仕切る「武家の世」が始まります。清盛は娘たちを藤原家など主な貴族に嫁がせ、権力基盤を万全にしていったのです。

そして、太政(だいじょう)大臣という臣下の頂点に立った時点で、清盛は政治の実権を嫡男の重盛に譲り、自分は福原(今の神戸)を拠点とする交易の基盤づくりに乗り出すのです。