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誌上講演会

京都大学名誉教授 渡辺 久義

21世紀は女性原理の時代

「わが娘のための祈り」

個人と社会をつなぐ秩序のかなめとして、つまり社会秩序の最小単位として、家庭の重要さが見直されねばならないという考えから、「家庭学」というものが提唱されている。しかしこれはまだ私の知る限り、目立って動き出していないようである。日本国憲法には、家庭条項が欠けているということもよく指摘される。中国の古典にも「修身斉家治国平天下」と言われて、「家を斉(ととの)える」つまり家庭の秩序を確立することが、わが身一身を修めることと、国をうまく治め世界に平和をもたらすことの間に、不可欠の要件として挟まれている。これは家庭が崩れれば、社会も国家も崩れることを意味する。これが昔からの人間共通の認識であったと考えられる。

世界がどんなに変わっても、この常識が変わることがあってはならない。世界の秩序は家庭の秩序を前提としている。(進歩の名において)これを軽蔑したり破壊するとすれば、それは世界を滅ぼすことになる。人は不健全な世界に住むことを望まない。世界中のどんな文化を訪ねても、花嫁の純潔を軽蔑し嘲笑するような文化は存在しない。それが現れる時は人が一斉に狂ったときであろう。

ところで私が個人的に考えている、しかし普遍的でもあると確信している、本来の家庭のあるべき姿がどういうものであるかを、ある詩に寄り添って説明してみようと思う。うまく説明できるかどうか、賛同していただけるかどうか自信はない。

私が長年取り組んだアイルランドの詩人W・B・イェイツ(W.B.Yeats, 1865−1939)に、「わが娘のための祈り」(A Prayer for my Daughter)という詩がある。イェイツの全詩の中からあえて一つを選ぶとすればこれだと私は常に言い、ベートーベンの第6交響曲(田園)によく似た、「偉大」という言葉が当てはまる作品だと思っている(拙著『イェイツ』参照、ただし残念ながら現在絶版)。10節からなる厳格な定型詩で、ここで全体を解説することはできないが、イェイツが苦い人生の失敗を経て、50歳を過ぎて初めて授かったわが子が、嵐の迫りくる中で揺籃(ゆりかご)に眠るのを見ながら、その将来を祈る詩とだけ知っておいていただきたい。私がこの詩に惹(ひ)かれるのは、これが家庭の原点を言い当てた作品であり、無限の懐かしさの感情を誘発する詩だからである。私の育った家庭がこうであったというのでもなく、逆に、こうでなかったから飢えているというわけでもない。すべての人間の本能がこのような家庭を求めていると思えるのである。その第6節——


この娘が生い茂る、隠れた樹木となり

その思いがヒワ(小鳥)のように

ひたすら豊かでにぎやかな声を

あたりにまき散らすようであってほしい。

たわむれでなければ人を追いかけたりせず

たわむれでなければ喧嘩などしないように

おお、この娘が一つのなつかしい永遠の場所に根付く

緑の月桂樹のように生きてくれますように。

フェミニストの思い違い

この詩を何度も輪読した私の経験から言うと、このような箇所に激しく反発するのは、きまってフェミニストの女性である。なぜ女性が「隠れた」樹木にならなければならないのか、なぜ女性だけが「永遠の場所に根付いて」家庭を守らなければならないのか、と彼らは言う。しかしこれはイェイツや私の考え方からすると、本来の人間のあり方を受け入れることができない不幸な人たちだ。この詩はむしろ男性の欠点や愚かさを、本来の女性のすぐれたあり方によって浮き彫りにする詩だと言ってもよい。男性の本領である論理や理屈や力によって世界を治めることはできない。その根本にあって本当に世界を支配できるのは、すべてを包み込む家庭、すなわち女性の力だという思想を、ここに読み取るべきなのである。フェミニストは完全に思い違いをしている。家庭という原点が人間を支えるのである。この詩の最後はこう結ばれる——


そしてこの娘の花婿が、すべてが習慣に則り礼儀正しい

そんな家に彼女を導いてくれますように。

なぜなら傲慢と憎しみは、

大道商人の売っている安ピカ物にすぎないのだから。

どうして、しきたりと礼儀のないところに

無垢(むく)と美が生まれることができようか?

礼儀とは豊饒(ほうじょう)の角(つの)の名、

しきたりとは枝を広げる月桂樹の名である。

(注、「豊饒の角」rich hornまたはhorn of Plentyとは豊かさの象徴、角の杯から穀物や果物や花などがあふれている絵であらわす。「打ち出の小づち」に当たる。)


ここに保守主義というものの最もすぐれた本質が言い表されている。保守とは、人間の根源にある純粋な情動を大切にすることである。人間の定めた秩序でなく、神の定めた秩序に帰一することである。「人のやさしい意志が天の意志である」ときに、人は何ひとつこの世に恐れるものをもたないと詩人は言う。「あらゆる人が顔をしかめようと、あらゆる方向から風が吠え立て、あらゆるふいごが張り裂けようと、なお人は幸福でいることができる。」(第9節)。

特定の宗教を超えた有神論的世界観というものが復権しつつある今、私は躊躇(ちゅうちょ)なくここで「神」(天)という言葉を使うことができる。「傲慢と憎しみ」とは、神(天)の秩序、自然の秩序に逆らう者の最も顕著な特性である。「ジェンダー・フリー」思想などは、自然の秩序に逆らう最も典型的な例であろう。

妻の「やさしい意志が天の意志に」

20世紀という時代は、この自然に逆らう「傲慢と憎しみ」の思想が、世界を恐怖と混乱と悲劇のどん底に突き落とした時代であった。それは、ダーウィン進化論を根底にもつ無神論・唯物論思想が世界を支配した時代であった。科学思想としても、社会改良思想としても、あらゆる方面でこの「傲慢と憎しみ」の原理が適用された。80年も前に書かれたこの詩のこの言葉が、まさに世界を滅びへと導く原理であったことが、今になってはっきりしてきた。

20世紀を支配した、自然(天)に逆らう無神論・唯物論思想は、明らかに男性特有の思想であった。論理や理屈や腕力を振りまわして自然(天)に逆らうことが、男性の本質であるとするなら、本然の世界と一つになってすべてをやさしく包み込むのが、女性の本質だと言えるだろう。その意味で、21世紀は女性原理の時代であり、そうならなければならないと思う。これは必ずしも女性の社会進出ということを意味するのではない。むしろこの詩にあるように、「生い茂る隠れた樹木」として、目立たない所から強力に女性が支配する世界になると思われる。

これを宗教への回帰と呼んでもいいのだが、宗教という言葉がこれまでのニュアンスを引きずっているために、これを「生命

原理」の時代と呼ぶ方がよいと思う。これに対して、これまでの自然に逆らう男性支配の時代を「物質原理」の時代と呼ぶことができる。物質(モノ)の本質が排除・闘争・孤立だとすれば、生命の本質は、融合・調和・和動といった概念で表すことができるだろう。今、科学の宇宙解釈のパラダイムが、物質原理から生命原理に転換しつつあることを考えても、これからの時代が女性原理の時代に入っていくことは確かである。

自然(天)に逆らうことによって、すなわち「傲慢と憎しみ」を貫くことによって、何物も発展もせず生産もされない。天と一体化することによってのみ「豊饒」がもたらされる。家庭のかなめ石としての妻(母)の「やさしい意志が天の意志になる」ことによって、豊饒がもたらされるとイェイツは言いたかったのだ。わが娘の将来への祈りの中に、豊かさの概念が神の祝福のように鳴り響いている。