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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

平忠盛と宗子——平家繁栄の基礎を築いた忠盛

白河院との関係を結んだ妻の宗子

伊勢平氏の台頭

平家繁栄の基礎を築いたのが清盛の父・忠盛です。忠盛は伊勢平氏と呼ばれるように、三重県北部を拠点にする平氏に生まれ、白河法皇を守る北面武士(ほくめんのぶし)や盗賊・海賊を征伐する追討使として活躍します。

法皇によって諸国を治める受領(ずりょう)に任命され、博多での日宋貿易にかかわって莫大な富を蓄えます。その財力で鳥羽上皇に仏像千体のある観音堂を寄進して、武士として初めて殿上人に出世しました。

忠盛は歌集を残すなど歌人としても優れ、賀茂祭では見事な舞を披露しています。貴族社会では和歌がいわば共通語で、思いや事象を和歌で表現し、交流できることが必須でした。武人であるとともに、貴族と対等に付き合える文化人でもあったのです。平氏一族の棟梁として尊敬された忠盛は、指導力に先見の明もあり、清盛以上の人物とも言えます。

当時、武士では源氏と平氏が勢力を競っていましたが、忠盛は娘を源義忠に嫁がせることで源氏とも信頼を結んでいます。義忠は忠盛が元服する時の烏帽子(えぼし)親を務めました。義忠の河内源氏は次代の棟梁・為義(ためよし)の代に衰退し、平氏が台頭するのです。

忠盛の正室が、白河院の近臣の一人、藤原宗兼の娘・宗子で、清盛の継母となり、夫との間に家盛、頼盛(よりもり)の二人の息子を産みます。家盛は清盛の10歳下の弟で、二人して平家を盛り立てるよう父母の期待を集めますが、20歳で病死してしまいます。

宗子は六波羅の屋敷の池がある池殿(いけどの)に住んでいたことから、家盛が亡くなった4年後に忠盛が58歳で他界すると池禅尼(いけのぜんに)と呼ばれるようになります。公家につながり見識もある継母に、清盛も頭が上がらなかったようです。

白河院に近い宗子の家

白河法皇の死後、院政を引き継いだ鳥羽法皇が、白河院の寵愛を受けた藤原璋子(たまこ)(待賢門院)より藤原得子(なりこ)(美福門院)を愛したことから、従兄の藤原家成が院側近の筆頭になります。宗子が家成のいとこだったので忠盛も重用されるようになったのです。

鳥羽院の荘園である肥前国神崎荘の管理を任された忠盛は、日宋貿易を扱っていた太宰府の臨検を院の権威で排除し、自ら貿易に携わります。当時、日宋貿易は民間で活発に行われており、博多には宋人が居住していました。忠盛は越前守の時代に、敦賀港で行われる日宋貿易の巨利に目を付けたとされます。

鳥羽法皇の子・崇徳(すとく)天皇に重仁(しげひと)親王が生まれると、宗子はその乳母(めのと)になります。乳を上げる女性は別にいて、いわば養育係。夫の忠盛は乳母夫として重仁の後見人となります。忠盛の死後は、その役目を息子の頼盛が受け継ぎます。忠盛は和歌のつながりでも崇徳に信頼されていました。

重仁への皇位継承をめぐる対立で、崇徳と弟の後白河天皇との間で起きたのが1156年の保元の乱です。それぞれに連なる源氏と平氏が、院と天皇の命を受け戦ったのです。関係の近さでは平氏は崇徳でしたが、清盛は一門の結束を図る上で後白河に付きます。叔父の忠正は崇徳側だったので、平氏が分裂する危機でもありました。

政治感覚の鋭い池禅尼は、武力からして後白河のほうが有利だと見て、嫡男の清盛に従うよう頼盛を説得します。彼女の見識が平氏の分裂を救ったのです。

頼朝を助けた池禅尼

続く平治の乱で、清盛は源義朝(よしとも)を打ち破り、武士の頂点に立ちます。関東に逃れる途中、義朝は殺され、嫡男の頼朝は捕らえられます。本来ならその場で斬られるのが当たり前ですが、頼朝が亡き家盛に似ていたことから、守り役だった平宗清に命を助けられ、京に連行されます。

宗清の引き合わせで頼朝に会った池禅尼は、家盛に生き写しなのに驚き、仏教に帰依していたこともあって、清盛に命乞いをします。寛容で無益な殺生を好まず、源氏の復興はありえないと思っていた清盛は、頼朝を殺さず伊豆に流します。弟の義経は鞍馬寺に預けました。

この池禅尼の温情が、後に頼朝を旗頭にした源氏の復興を許し、結果的には平家一門を滅亡に追い込んでしまうことになります。

頼朝が関東で源氏を束ねることができたのは、父・義朝が平氏に後れを取った京を離れ、関東一円で源氏のために働き、結束を回復していたからでした。こうした夫婦、親子の絆で戦われたのが源平の合戦です。