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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

白河天皇と中宮賢子

「もののけ」と呼ばれた白河法皇のいちずな純愛と院政の始まり

「治天の君」と呼ばれ

大河ドラマ「平清盛」では、世の乱れの元となった権力闘争の原因は、多くの女性と関係して子をもうけた白河法皇にあるとされ、「もののけ」と呼ばれています。しかし、そうなったのは晩年で、皇太子時代には一人の女性をいちずに愛する純情さがありました。

皇太子とは皇子(親王)の中で第一の皇位継承者のこと。皇太子に皇位を譲った天皇を上皇、出家した上皇を法皇といいます。夫人の場合、天皇と寝所を共にする女性を女御(にょうご)、皇子を産むと中宮、その中で正妻に当たるのが皇后、皇太子が天皇になると皇太后、とそれぞれ呼ばれます。

後三条天皇と藤原茂子との第一皇子に生まれた白河天皇は、父親の即位に伴い1069年に皇太子に、後三条天皇の病没により1073年に天皇になります。後三条上皇は白河天皇の異母弟・実仁(さねひと)親王への譲位を願っていたのですが、それに反発した白河帝は、1085年に実仁親王が亡くなると、八歳のわが子・善仁(よしひと)親王を皇太子に立て、即日譲位して堀河天皇とします。そして、自分は上皇となり、幼帝を後見して政務を握るようになります。これが院政の始まりです。

院政とは、規則や官僚に縛られた天皇の立場から自由になり、天皇の実父という権威をもって政治の実権を振るうことで、藤原家の摂関政治から主導権を取り戻すために取られた制度です。院は最高の権力者という意味から「治天の君」と呼ばれます。

天皇親政と摂関政治

部族の連合国家だった古代日本を、天皇が中心の中央集権国家にするため導入されたのが律令制です。しかし、それは日本の実情に合わず、やがて摂関政治が始まります。摂関とは摂政と関白で、それぞれ元服前、元服後の天皇を補佐する役職のことです。

平安京に遷都した桓武天皇は、唐の皇帝にならった親政政治を目指して直属の役職を作ったのが、財務の蔵人所(くろうどどころ)や警察の検非違使(けびいし)で、次いで摂関が置かれました。きっかけは、幼い清和天皇を、上皇となって後見するはずだった文徳天皇が没したため、太政大臣だった藤原良房が代わって後見したことです。

次いで、良房の養子・基経(もとつね)が、良房を前例として摂政に任じられたため、藤原家が摂関を継承することとなります。天皇の権力を強化する形で、藤原家がほかの貴族を排斥しながら、権力を掌握していったのです。

その極みが、我が世の栄華を満月にたとえる歌を詠んだ道長で、3人の娘を天皇の中宮にしたのは歴史上道長だけ。皇后や皇太后が一定の政治力を持つのは当然で、藤原家の官位も女性によって勝ち取られたものが多いのです。

律令制を入れながら官僚を選ぶ試験制度の科挙を採用しなかった日本では、上流貴族が官僚となり、世襲制で家業としての政治を行います。当時、政治の要諦(ようてい)が儀式にあったので、貴族はその決まり事や記録を日記に記し、子孫に伝えていました。だから、権力を握った平氏も、政治の細部は貴族に丸投げするしかなかったのです。

国土国民は天皇のものという公地公民制が崩れ、私有財産の荘園を増やした貴族は、その警護のため武士を使うようになります。争いの原因は複数の皇子とその取り巻きによる皇位継承で、藤原家の中でも誰が摂関になるかの争いが起きます。

中宮賢子が28歳で病死

白河天皇が最初に迎えた妃は、17歳の皇太子時代で、権大納言藤原能長(よしなが)の養女道子28歳です。10歳以上年上ですが、美しく教養のある道子を、白河帝は大切にしました。

その2年後に妃に迎えたのが、左大臣藤原師実(もろざね)の養女賢子(かたこ)15歳です。即位後、2人とも女御になるのですが、白河帝は若い賢子を寵愛し、2人の皇子と3人の内親王を授かります。道子も35歳で身籠もりますが、生まれたのは内親王。父の能長は落胆しますが、道子は権力闘争に巻き込まれないのを喜びました。

幸せな賢子を襲ったのが、都で流行していたはしかです。最初に賢子がかかり、それが4歳の親王に感染し亡くなってしまいます。その後、次の親王を出産したころから賢子は体調が悪化、静養のため実家に帰ろうとしますが、帝は許しません。

加持祈祷のかいもなく賢子は衰弱し、見かねた父の師実が実家に引き取りますが、病状は重くなるばかり。そして1084年、帝に手を取られながら、28歳の若さで崩御します。白河帝は亡骸を抱いて何日も号泣し続けました。もののけのように愛と権力を独占した白河法皇にも、そんな青年時代があったのです。