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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

佐藤義清(西行)と妻・萩

出家しながら妻子を見守り続けた西行。後に妻と娘も出家し、夫の近くに住む

娘を足蹴にして出家

大河ドラマ「平清盛」では、出家を決意した23歳の佐藤義清(のりきよ)が、縁側から幼い娘を足蹴にする場面がありました。これは、鎌倉時代の西行物語絵巻にも描かれていて、肉親との絆を断ち切る決意を表しているように思えます。

鳥羽上皇を警護する北面の武士でありながら、仏教と和歌の道を究めようとして出家した義清が後に西行と名乗ったのは、阿弥陀仏の西方浄土へ行くとの意味からでしょう。

もっとも、西行は決して家族を見捨てたわけではなく、80歳の老母に19歳の若妻と娘が困らないよう心配りをしています。佐藤家は裕福だったので、妻は姑の世話をしながら娘を育てました。姑の死後は母娘共に出家し、西行が修行している高野山のふもとに庵を結んで暮らしていますから、夫を慕う心は持ち続けていたのです。

義清が出家した理由には、鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との許されない恋、従弟で親友だった佐藤範康(のりやす)の急死の二つの説があります。さらに、朝廷を取り巻く権力闘争も暗い影を落としています。

政争に巻き込まれる恐れ

義清は藤原氏の流れを汲む武家の生まれで、祖父の代から佐藤を名乗り、代々朝廷の警護役を務め、紀伊国(和歌山県)に広大な荘園を持っていました。義清は16歳ごろから徳大寺家に仕え、和歌と故実に通じ、18歳のころ鳥羽上皇の北面武士に取り立てられます。後に同僚となる平清盛とは同じ1118八年の生まれで、親友になります。

白河法皇に始まる院政は、藤原氏による摂関政治から権力を天皇家に取り戻すためでもありました。藤原家の権力回復を意図した関白藤原忠実は、娘の泰子を鳥羽天皇の皇后にしようとして白河院の反発を買い、関白を辞めさせられ、宇治に隠居します。

白河院の死後、院政を継いだ鳥羽上皇により宮廷への復帰が許された忠実は、再び娘の入内(じゅだい)を進め、泰子は鳥羽院の皇后になります。関白を継いだのは長男の忠通ですが、忠実とは考えが合わず、忠実は藤原氏の長者を次男の頼長に譲ろうとします。

それに対抗する忠通は、美貌の藤原得子(なりこ)(美福門院)を鳥羽院に紹介し、得子に引かれた院は彼女を皇后とします。その仲介の労をとったのが、母が鳥羽院の乳母を務め、鳥羽院とは乳兄弟だった葉室顕頼(あきより)です。

得子に鳥羽院の愛を奪われた璋子は、激しく得子を憎み、璋子の子・崇徳天皇も母に同情を寄せます。しかし、鳥羽院が寵愛する得子を罰するわけにはいかないので、二人の間を取り持った顕頼とその一族を断罪したのです。

窮地に立った顕頼が、何とか璋子の怒りを解こうとして近づいたのが璋子の兄・徳大寺実能(さねよし)で、その手段に企てたのが、葉室氏の娘・萩の前と義清との結婚でした。佐藤家が徳大寺家の荘園の寄進をうけた領主だったからです。若い義清は主家の言うままに萩の前を妻に迎え、若い夫婦は愛し合い、娘をもうけます。

ところが、和歌を通して鳥羽院とも崇徳天皇とも親しく接していた義清は、次第に自分が政争に巻き込まれていくのを知るようになります。嵐山の法輪寺に若い僧・空仁(くうにん)を訪ね、仏の教えを学ぶなど、和歌と共に仏教にも引かれ、自分らしく生きたいと思っていた義清は、醜い政争から遠ざかろうとしたのかもしれません。

自由な立場で人々と交わる

従弟の佐藤範康の急死には、徴税をめぐる諸国の在地領主と国司との争いが絡んでいました。律令制度の下では本来、土地はすべて国有でした。ところが、次第に貴族や有力寺社荘園の私有が認められるようになると、そこからの徴税が難しくなります。

朝廷から派遣されている国司は、取りやすいところから税の米を取ろうとするので、荘園を管理している武士との間で、争いが頻発するようになったのです。平安時代末期には、自然災害も相まって、各地で騒乱が相次ぐようになります。

こうした問題は国の仕組みを変えないと解決しません。そこで期待された一つの勢力が、金の産出で強大な力を蓄えていた奥州藤原氏で、佐藤家の同族です。前述の範康は、藤原基衡(もとひら)に決起を促す旅に出る直前に急死したと伝えられています。

出家して自由な立場になった西行は、かつての友人や貴人、女官たちを訪ね、和歌を交わしたり、相談に乗ったりしていますから、決して世を捨てたわけではありません。

妻や娘の様子も見守り、九条家の娘・冷泉の養女になった娘が、冷泉の嫁ぎ先で侍女のように扱われているのを見て腹を立て、娘を連れ出し、妻の所に戻したほどです。