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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

孫文と宋慶齢、梅屋庄吉とトク

孫文の辛亥革命を支援し、宋慶齢との結婚を世話した梅屋庄吉と妻トク

辛亥革命を支援した日本人

昨年は中国で清朝を倒した1911年の辛亥(しんがい)革命から100年目だったため、その関連の事業が続きました。三民主義を唱え、革命を主導した孫文は、台湾(中華民国)で「中国革命の父」「国父」、中国(中華人民共和国)でも「近代革命の先人」、近年では「国父」と呼ばれ、国の体制が異なる双方で尊敬されています。

翌12年に共和制の中華民国が誕生し、孫文が臨時大総統に就任しますが、革命勢力は非力だったため、清朝の開化派官僚だった袁世凱(えんせいがい)に付け込まれ、権限の多くを奪われて、彼が第2代臨時大総統になります。

その後、独裁化を強めた袁世凱に対し、孫文たちは13年に第2次革命を起こしますが鎮圧され、多くの者が日本に亡命してきました。当時、日本には数万人の中国人留学生がいて、近代思想に目覚めた彼らの多くが革命運動に参加し、命を落としています。革命を応援する日本人が多くいた当時の日本は、中国革命の揺籃(ようらん)の地だったのです。

その一人が梅屋庄吉で、1868年長崎生まれの実業家の彼は、貿易商・梅屋家の養子になり、香港を拠点に貿易を行う傍ら、写真館も経営するようになります。庄吉は映画にも乗り出し、白瀬矗(のぶ)中尉の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作して、後に日本活動写真(日活)の創業者の一人になります。

孫文は1866年に清国広東省の客家(はっか)の農家に生まれました。ハワイにいた兄を頼って、ホノルル市の学校で学び西洋思想に目覚め、心配した兄や母により中国に戻されます。

帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学んだ孫文は、次第に革命思想を持つようになります。卒業後は、広東州の州都・広州での武装蜂起を画策しながら、ポルトガルの植民地マカオで医院を開業しました。

その頃、香港で写真館を開いていた梅屋庄吉は孫文に出会って惚れ込み、熱く革命を語る孫文に「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」と約束します。

庄吉の妻トクは壱岐の商家に生まれ、英語が堪能だったので庄吉の秘書代わりを務め、孫文とも親しくなります。今の妻と離婚し、英語が堪能で同じ客家の名家の娘である宋慶齢との結婚を望む孫文のため、トクは女同士として彼女の胸のうちを聞いています。孫文が26歳も年上で、前妻との間に子供がいたからです。

そして、慶齢も孫文との結婚を望んでいることが分かると、庄吉と共に二人の結婚を勧め、1915年に東京で二人の披露宴を開きました。

宋慶齢は姉の靄齢(あいれい)、妹で蒋介石夫人の美齢と共に「宋家三姉妹」の一人。1893年に上海で生まれ、14歳でアメリカに留学し、1913年の帰国後は、父親が支援していた孫文の秘書を務めていました。

革命いまだ成らず

辛亥革命に孫文が果たした役割は、主に海外華僑からの資金調達です。1894年にハワイで興中会を組織した孫文は、翌年、初の武装蜂起を広州で企てますが、密告で頓挫し、日本に亡命します。

滞日中の孫文は、1897年に宮崎滔天(とうてん)の紹介で玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて実業家の平岡浩太郎から経済援助を受け、住居である早稲田の屋敷は犬養毅に斡旋されています。

1899年に、義和団の乱(北清事変)が起こり、中国にある外国の公使館などが攻撃されると、日本はじめ列強が出兵します。この混乱を機に、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが、これも失敗します。

その後、孫文はイギリスに渡りますが、ロンドンで清国公使館に拘留されました。イギリス人に助け出され、その体験本を英語で出版したことで、革命家として世界的に有名になり、革命資金集めにも役立ちます。

孫文は1905年にスエズ運河を通った時に、多くのエジプト人から「日本人か」と聞かれ、日露戦争の日本の勝利がアラブ人に大きな感銘を与えたのを知りました。清国は満州民族が建てた国で、革命は漢民族の独立も意味していました。その後、孫文は東京で中国同盟会を結成し、留学中の蒋介石と出会います。

1925年に死去した孫文が「革命なお未だ成功するに至らず」と遺言したように、辛亥革命後も中国の政治は迷走しました。孫文の革命を受け継いだ蒋介石は、戦後、毛沢東との内戦に敗れ、台湾に逃れます。孫文の遺志を継いだ宋慶齢は大陸にとどまり、蒋介石を裏切り者と攻撃しました。梅屋庄吉は孫文の死後、彼の銅像を四体、中国内に建立しています。