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誌上講演会

筑波大学名誉教授 鈴木 博雄

母の思い出

大阪から東京へ、母の涙

母の思い出と言えば、4、5歳の頃、内職で編み物をしていた母の膝元で過ごした日々である。母は編み物の手を休めずに、絶えず傍にいた私にいろいろと話しかけてくれた。母は私の兄に当たる二児を幼少時に失っていたので、私の養育にはとても気を配ってくれていた。

母は、家のすぐ近くに祀られていた地蔵尊に、毎日お水を上げ胸かけを取り替えるなど、心を尽くして世話をしていた。それもひとえに我が子(私)の無事を願ってのことだった。また、母は私の手を取って市内の高津宮をはじめとする七神社を参詣(”七宮詣り”と言われていた)して回って、神の加護を祈ってくれた。

こうした子供の頃の体験から、私は成人後、世の中が一変して、神仏への信仰が薄れていく風潮になっても、行きずりの地蔵尊の前を素通りできなくなっていた。

昭和12年(1937)、父の転勤に伴い、一家は上京することになった。大阪駅のホームには、母の知人や親類が見送りに来てくれた。汽車が淀川を渡ったとき、私がふと母を見ると、母の目には涙が一杯だった。生後40年、大阪で生まれ育ち大阪より外に出たことのなかった母の心境を推察すれば、見知らぬ東京行きは、戦後早々、私が独りでアメリカ行きの船に乗った時と同じような不安な気持ちだっただろう。

「女の人は皆、戦争は嫌い」

私たちは、杉並区高円寺の住宅に落ち着いたが、新興住宅地で隣近所との付き合いも挨拶程度の浅いものだったから、その生活に母はとても不安だったに違いない。買い物に出ても、店員の東京弁に、「叱られている気がした」とこぼしていた。日中戦争が長引くにつれて、食糧も不足がちになり、やがて配給制になった。育ち盛りの子供4人を抱えた母の苦労は、子供心にもよく判った。

当時、市民はよく郊外の農家を訪ねて、野菜やサツマイモなどの買い出しに出掛けた。

私も、小学生だったが、母の買い出しについて行き、重い荷物を持ち、母の手助けをした。その頃、私の近所でも友達の父が応召することになり、近所の人々は、「万歳、万歳」で送り出した。その賑やかな雰囲気の中で、私はたった独り、友達の母がそっと涙を拭っているのを見た。銃後の少国民だった私は、家に帰って、友達の母親が夫の陰でそっと涙を流している姿を「弱虫だよねえー」と憤然たる口調で母に伝えた。ところが母は、「女の人は皆、戦争などは嫌いなのよ」と話してくれた。

しかし、当時の軍国少年だった私には、到底納得がいかなかった。

この挿話を戦後50年頃、中国に行ったときに、中国の女性たちの集会で話したところ、多くの女性たちが私のところに来て、「とてもいいお話だった」と感激した面持ちで話してくれた。この時、「女性は世界中、どこの国でも戦争は嫌いなんだ!」と改めて教えられたのだった。

今も母と共に生きている!

日米開戦後、東京でも食糧難と空襲の脅威から”疎開”が叫ばれるようになった。当時、食べ盛りの中学生だった私は、父に頼んで地方に疎開しようとねだった。

こうしたこともあって、父は四国の高松に転勤した。人の良い父はそこで町内会長を引き受けたが、父には職務があるから、町内会の実務は全て母の肩にのしかかってきた。当時は食糧をはじめ多くの生活用品が配給制だったために、町内会長の実務は多忙を極めた。その上、食糧難でもあったから、日々の食事のためにも苦労したようだった。

やっと終戦となり、ほっとしたのも束の間、母は戦時中の疲れがどっと出てきたのか、私が中学4年生(旧制)の時、丸亀の病院で死亡した。私は母の死に目にも会えず、訃報を聞いて呆然とするだけだった。その悲しみと怒りをぶつけるところもなく、ただ”畜生!畜生!”と呟くだけだった。

母が死没してから半世紀を経るが、私の胸には今も母が生きている。どんなに辛いときでも母の慈愛ある目差(まなざ)しが私を慰め、励ましてくれている。私は今でも母と共に生きている!