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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

天武天皇と持統天皇

夫婦で日本という国のかたちの根幹をつくり、同じ飛鳥の御陵に眠る

古事記編纂1300年

今年は、現存する日本最古の歴史書『古事記』が編纂(へんさん)されてから1300年に当たります。編纂を命じたのは天武天皇で、それまでに伝わっていた天皇家や各地の歴史を稗田阿礼(ひえだのあれ)に暗唱させ、後にそれを太安万侶(おおのやすまろ)が編纂して、奈良時代初めの712年に元明天皇に提出しました。8年後の720年には『日本書紀』が完成しています。

古事記が漢文と日本語に漢字を充てた文章が混じった書き方であるのに対して、日本書紀は完全な漢文であることから、古事記は国内向け、日本書紀は当時の文明の中心だった中国向けに書かれたものだとされています。両方を合わせて「記紀」と呼びます。また、当時の人たちの暮らしや気持ちなどは、『万葉集』で知ることができます。

これらの舞台となった奈良では、今年から2020年にかけて「記紀万葉プロジェクト」が展開されています。記紀万葉にかかわる史跡や故地を訪ね、古代に思いを馳せながら、今の日本や私たちの在り方を考えようというものです。

飛鳥時代の国づくり

古代史では、聖徳太子が摂政になった593年から、藤原京に都が遷(うつ)る694年までの102年間を飛鳥時代と呼びます。日本が部族連合から中央集権国家へと発展した時代で、国号も侮蔑的な倭国(倭)から日本へと変わりました。

日本古来の神道と先進文化の仏教を基本に、中国の律令制をモデルに国づくりを目指した聖徳太子は、遣隋使と共に留学生を派遣し、先進文化を徹底的に学ばせます。隋に代わった唐から帰国した留学生らが中心となり、中大兄皇子(後の天智(てんじ)天皇)や中臣鎌足らが645年に起こしたのが大化の改新で、これによって天皇中心の政治体制が定まり、701年の大宝律令により、律令国家の基本ができました。その中心的役割を果たしたのが、天武天皇と妻の持統天皇です。

奈良県明日香村には天武・持統天皇陵があり、夫婦が仲良く一つの御陵に眠っています。天武天皇のために築かれ、後に702年に亡くなった持統天皇が火葬され、合葬されました。発掘調査で八角墳であることが確認され、被葬者が不明の天皇陵が多い中で、この御陵は確実だとされています。

天武天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれた時代の672年に、古代史最大の内乱とされる壬申(じんしん)の乱を起こして、兄である天智天皇が皇位を譲ろうとした大友皇子(おおとものみこ)を倒し、いわば武力で皇位を奪った唯一の天皇です。これには、当時の東アジア情勢が深くかかわっています。

百済を支援する日本軍が、唐と新羅の連合軍に完敗した663年の白村江(はくそんこう)の戦いは、日本最初の国難でした。日本が敗れたのは軍事力の差以上に国力の差があったからで、部族連合より中央集権の方が、国としてはるかに強力だったのです。天智天皇は唐の大軍の来襲に備えて対馬から畿内までの各所に城を築き、都を海から遠い大津に遷しました。さらに、政治の中央集権化を急がせます。

ところが、天智天皇の子・大友皇子は唐の文化を好み、渡来の知識人を側近にしていました。大友皇子が皇位に就けば日本は唐の属国になってしまうと考え、反乱を起こしたのが、和歌の達人だった大海人皇子です。

夫の遺志を妻が継ぎ

大津を離れ飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位した天武天皇には九つの偉業があります。天皇号の創始、陰陽寮・占星台(天文台)の設置、古事記・日本書紀の編纂勅命、天皇即位の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)や八色の姓(かばね)、飛鳥浄御原令、三種の神器の制定、伊勢神宮の遷宮の開始、そして藤原京の設計で、一部は持統天皇に受け継がれました。

686年に志半ばで崩御した天武天皇の遺志を継いで皇位に就き、飛鳥浄御原令を制定し、藤原京を完成させ、六九四年に遷都したのが持統天皇です。藤原京は日本史上最初の碁盤の目の条坊制を用いた都で、唐の都を日本に再現させたものです。奈良の平城京も、京都の平安京もこれにならったので、都の基本と言えます。

持統天皇は天智天皇の娘ですから、夫は父に敵対し兄を討った人です。しかし、壬申の乱では進んで夫を助け、吉野から伊勢、美濃への遠征に同行しています。当時は、皇位継承をめぐる皇子たちの争いが乱の原因となることが多かったので、夫妻は避難先の吉野で6人の皇子たちを集め、互いに争わず協力することを誓わせています。これが「吉野の盟約」です。ところが、その一人、大津皇子が謀反を起こそうとしたので、持統天皇は素早く対応し、自殺に追い込みました。非情な側面も併せ持つ政治家として優れた女性だと、歴史家には評価されています。

ちなみに、薬師如来を祀る奈良の薬師寺は、病気になった皇后の回復を祈願して天武天皇が創建した寺で、夫婦愛の表れとも言えます。