機関誌画像

歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

崇徳上皇と後白河法皇

皇位継承をめぐる兄弟争いが平氏と源氏を巻き込み保元・平治の乱へと発展した

保元の乱

日本社会に長子相続のルールができるのは、儒教が指導原理となる江戸時代になってからです。それまでは最も優れた者が父の仕事を継ぐという時代で、そのため兄弟争いが頻発しました。まして皇位継承となると、周りの人たちの欲望に翻弄され、悲劇的な事態になることも多く、その一例が崇徳(すとく)上皇と弟・後白河法皇の争いです。

圧倒的な権力を持っていた白河法皇が亡くなると、孫の鳥羽上皇が院政を継ぎました。鳥羽天皇の第一皇子は、実は白河法皇が皇后・璋子(たまこ)(待賢門院)と関係して生まれた子で、法皇は5歳で崇徳天皇として即位させたため、鳥羽天皇は白河法皇を深く憎みます。

鳥羽天皇は璋子より若い得子(なりこ)(美福門院)を寵愛し、その子を2歳で近衛天皇として即位させ、崇徳天皇を退位させます。ところが、近衛天皇は17歳で病死しました。

近衛天皇には皇太子がいなかったので、皇位継承をめぐって藤原摂関家が絡み、激しい争いを展開します。それが武士の平氏と源氏を巻き込んだのが保元(ほうげん)の乱です。

藤原家では、氏の長である藤原忠実(ただざね)と嫡男の関白・忠通(ただみち)の父子関係が悪化し、忠実は学識と才気に富む次男の左大臣・頼長に肩入れします。

一方、鳥羽上皇と対立する崇徳上皇は、自分の子を即位させようとしますが、鳥羽上皇に阻まれ、崇徳上皇の弟が後白河天皇として即位します。崇徳上皇と後白河天皇は母は同じ待賢門院ですが、上述のように父親が異なり、別々の乳母に育てられたので、兄弟という意識は希薄でした。

不満を抱える崇徳上皇を担いだのが藤原忠実・頼長親子で、平忠正(清盛の伯父)や源為義(義朝の父)・源為朝ためともらを引き入れます。後白河天皇に付いたのは、美福門院に近い関白・藤原忠通に、平清盛と源義朝らです。

源為義が藤原忠実に付いたのは、源氏は藤原氏と先祖が同じ系統で、代々藤原家に仕えていたからです。義朝が父に従わなかったのは、源氏の棟梁の継承をめぐり対立していたからで、また正室の由良御前(熱田神宮の神官の娘で頼朝の母)は後白河天皇の姉の女官をしていました。

平清盛は義母の宗子が崇徳上皇の皇子の乳母だったので、崇徳に近いのですが、後白河に共感し将来性を感じていたようです。大河ドラマでは、清盛が敗れても平氏が存続できるよう、宗子の願いで忠正が崇徳側に付いたことになっていました。

平治の乱

保元の乱は後白河天皇側が勝利しました。藤原頼長は殺され、崇徳上皇は讃岐に流されます。信西(しんぜい)に、平清盛は伯父・忠正を、源義朝は父・為義を死罪に処すよう命じられ、激しく葛藤します。武士の世を開くための産みの苦しみで、大河ドラマ前半のクライマックスでした。

乱の活躍で権力を握ったのが藤原家傍流の信西と平清盛で、信西は後白河天皇の側近になり、清盛は播磨守(はりまのかみ)と大宰大弐(だざいだいに)になります。信西の妻は後白河の乳母で、信頼関係がありました。播磨国は今の兵庫県南西部、大宰府は九州の統治と宋との貿易を司る役所で、大弐は次官ですが実務のトップです。ところが、源義朝の恩賞は左馬頭(さまのかみ)で、清盛との差が大きく、信西を恨みます。

後白河天皇は子を二条天皇として即位させ、院政を始めます。信西は貴族の不正な荘園を天皇領に移し、無駄な官職を廃止するなど行財政改革を断行します。その被害を受けた藤原信頼らが徒党を組み、冷遇されている源義朝をけしかけ、清盛が熊野詣に出かけているすきに起こしたのが平治の乱です。保元の乱の3年後なので、「保元・平治の乱」とひとくくりにされます。

後白河上皇と二条天皇は幽閉され、信西は殺されますが、清盛の方が一枚上手で、たちまち形勢を逆転させます。鴨川での合戦で、兵力に勝る平氏は源氏を圧倒し、源平の争いに決着を付けます。源義朝は東国へ逃げる途中、尾張で味方に裏切られ、殺されます。頼朝も捕らえられますが、宗子(池禅尼(いけのぜんに))の嘆願で助けられ、伊豆に流されました。

崇徳上皇が大怨霊に

讃岐に流された崇徳上皇は、自分のせいで悲惨な争いを起こしたことを反省し、仏教に傾倒します。ところが、戦死者の供養のため京の寺に納めてほしいと朝廷に差し出した写経を、後白河上皇に「呪詛(じゅそ)が込められている」として送り返され、激怒します。

崇徳上皇は、写経に「大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と血で書き、爪や髪を伸ばし続けたそうです。そして、配流から8年後に46歳で亡くなります。

その後、都に大火や平氏転覆の鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀発覚などの異変が続いたため、「崇徳院のたたりだ」とうわさされ、崇徳上皇は日本一の大怨霊と言われるようになります。

もっとも、地元には愛する女性もでき、それなりに幸せな晩年を過ごしたとの説もあります。悲運の崇徳上皇でしたが、讃岐の心優しい人たちに囲まれ、安らぎの地を見いだしたと思う方が、心が安らぎます。