機関誌画像

誌上講演会

真の家庭運動推進協議会副会長 稲森 一郎

いじめの克服は家庭の再生から

いじめの広がる社会

滋賀県の大津市で起きたいじめ事件が連日のように報道されています。3人の生徒が一人の生徒をいじめて、いじめられた中学2年の生徒は、昨年10月11日、ついに自殺したという事件です。自殺の練習をさせられるなどの激しいいじめがあったという証言がある一方で、いじめがあったかどうかはっきりしないという学校当局の無責任な対応が問題となり、さらに、警察の取り調べの姿勢、教育委員会の対応など、次々に、いじめへの措置をめぐる問題が大きくなり、文科省も含めて、重大な一大社会事件という事態に立ち至っています。いじめる生徒(加害者)といじめられる生徒(被害者)の図式から、なぜいじめるのか、なぜいじめられるのかという、最も根本的な子供たちのいじめの世界を究明する必要があります。子供たちを取り巻く世界、すなわち今日の家庭と学校と社会の中に、おそらく、子供たちをゆがめてしまっている原因が潜んでいることは間違いないと考えられます。大まかに言えば、子供のいじめは大人社会の反映であるという側面を明らかに持っているということです。

いじめ事件が起きるたびに、論議を巻き起こすのは、加害者および加害者家庭に対する糾弾ないし謝罪の要求であり、これに対して、学校当局が真実を語りたがらず、状況や原因を隠蔽するといった事態も往々にして生まれています。この背景には、事実を明らかにすれば、責任が問われるという学校当局者たちの責任逃れの意識があり、また、加害者とその家族が社会から袋だたきの制裁を受け、加害者の人権という理屈から、原因を露呈させると、今度は一転して加害者が被害者に転落してしまうという事態が発生することへの配慮などもあることでしょう。

しかしながら、被害者とその家族への一般的同情は当然のことながら強く、加害者たちの罪を問うことなく事件を曖昧にすることなど、判官びいきの日本社会では到底受け入れられない土壌があるのも事実です。主犯格加害者の父兄がPTA会長を務めていたなどの情報が流れると、ますます人々は口角沫を飛ばす論議を展開します。加害者と被害者の関係は、いじめれば仕返しされるようになる、あるいは、いじめられれば仕返しするようになるという因果応報的な関係が存在するというのはそれなりの真理であるとしても、大津いじめ事件のように、被害者がすでに自殺に追い込まれて亡くなっているという事態は、被害者が復讐心を抱いて加害者に転じるという話では全くないわけですから、加害者側への糾弾は一層強いものになります。今回の大津いじめ事件が巻き起こしている激しい論争を考えるとき、国民のあいだに不信と憎悪が一般化している大人社会の反映が、まさに、悪い形で、そのまま子供たちの世界へ投影されているのは確かであると言えるでしょう。

日本の危機への警告

大人社会の反映が子供のいじめの原因を作っているとすれば、その大人社会のいびつさとは何かを問わざるを得ません。現在の日本社会が抱えている深刻な社会状況、それは日本全体を覆う強い閉塞感であり、人間同士が思いやりと信頼の関係を築けない強いストレス社会であるということが何よりも挙げられます。このような日本の由々しき現実相は、人間相互間のコミュニケーションの喪失を招き、結果として、閉鎖的な家庭や学校また職場が生まれることにつながっていることを意味します。

家庭において、肝心要の夫婦関係すらお互いの愛情の希薄化が生じ、親子関係、兄弟関係なども危機的状況に追い込まれているといっても過言ではありません。離婚、再婚、片親家庭なども多く、家庭状況が思わしくないことから、子供たちが深い愛情にはぐくまれてまっすぐに育つという機会も当然失われているとみなければなりません。また親たちの価値観があまりにも物質的で金銭的な欲望と話題に明け暮れ、子供たちも知らず知らずのうちにそのような影響を受けていきます。ネット社会が子供たちにまき散らしている害毒もあります。善悪をはっきりと教える親もなく教師もないとなれば、子供たちが正しく育つことは不可能です。いじめる生徒は本当の愛情に飢えているのです。

昔もいじめはあったなどと言いますが、最近のいじめの内容と度合いは陰湿そのものであり、およそ子供らしいものではなく、明らかに、大人社会の倫理喪失からの影響と思われるような、ゆがんだいじめ内容も多く、それを見て見ぬふりをして見逃す学校側の問題も非常に大きいものがあります。学校管理職や教師たちのいい意味での権威が喪失しており、全部とは言いませんが、怠惰で無責任な教師も少なくありません。家庭だけでなく、学校もまた崩壊の淵に立たされているというのは決して大げさな見方ではありません。家庭、学校、社会といった共同体の理想が、ことごとく音を立てて崩れていっているというのが日本の実情であり、大津いじめ事件は、いわば、このような現代日本の危機への警告です。

人類社会に共通する深い病根

もし、いじめというものの歴史的考察が許されるならば、人類の歴史そのものが「いじめ」の歴史であったという見方も可能です。人間が人間を愛し得ない、人間が人間を憎む、人間が人間を傷付ける、こういったことを「いじめ」という言葉でくくることができるとすれば、人類歴史は、過去も現在もいじめの歴史であり、いじめの社会であると言えます。子供であれ、大人であれ、いじめの強さ弱さの度合いであれ、加害者、被害者ともに不幸に陥れるいじめは、人間の尊厳性に対する挑戦であると言えます。人が人をいじめ、国が国をいじめ、人間同士の愛情の絆、信頼の絆を破壊して、人間世界を崩壊に導く強烈な負の人間心理が「いじめ」の中にはあります。

いじめの論理を語るとき、強者の論理と弱者の論理というものがあります。強い者が弱い者をいじめる、強い国家が弱い国家をいじめるというものです。性悪説的な現実論です。この論理からすれば、弱いからいじめられる、強ければいじめられなくてもすむ、ということになります。一理ある論理ですが、それでは強い者は永遠かというと、いつか仕返しでやられる時が来るかもしれません。強ければ簡単にいじめられませんが、強いからといって弱いものいじめをする必要は全くありません。いじめて優越感に浸るなど何の意味もありません。強いからいじめるという場合、必ず、それ以上になっていじめ返してやるという報復心理が作用します。力持ちで優しいという理想的な人間のありかた、強いが決していじめなどはしないという人格を追求しなければなりません。その意味で、強さを獲得することは重要ですが、強さをいじめに使ってはいけません。

弱ければいじめられる、あるいは、いじめられやすいというのは事実でしょう。だから、弱さを称賛することはできませんが、生まれつき、体が弱かったり、気が弱かったりする人もいます。その代わり、別の優れた才能を秘めている場合があり、決して人間として劣っているわけではありません。体力的に、武力的に強いから、弱者をいじめるという論理は、尊敬されるようなものではなく、かえって、反発を招き、いつかまた仕返しをされる運命にあります。強くてかつ正しく、かつ弱いものいじめをせず、愛情深く、心の優しさがあるというのが、おそらく理想でしょう。そのような人、そのような国家に反発する理由はまったくありません。

家庭の再生が鍵

結論的に、強くて優しい人間をどこで作るかということになりますが、家庭で作るしかありません。次に学校が続きます。これには、親の倫理観、教育観、さらに学校の倫理観、教育観が重要になります。いじめの克服といじめの解決は、まず、家庭の再生から出発し、同時に、学校を立て直していくというのが根本的かつ順当な結論と言えるでしょう。