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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

山本覚馬と新島八重

戊辰(ぼしん)戦争で悲惨な目に遭いながら会津魂で乗り越えた、京都で明治の国づくりに貢献した兄妹

ならぬことはならぬ

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、新島襄の妻・八重が主人公。会津藩砲術師範の家に生まれ、少女時代は花嫁修業より鉄砲が大好き。明治新政府軍と戦った会津戦争では、女ながらに鶴ケ城に籠もって大砲隊を指揮しました。

明治4年に兄の覚馬(かくま)を頼って京都に移り、そこで出会った新島襄と結婚、キリスト教式の結婚式を挙げます。襄33歳、八重29歳でした。

自立した女性としてアメリカ式のレディーファーストを実践し、夫を「ジョー」と呼んで男性社会からひんしゅくを買いながらも、病弱な襄を助けて同志社のために尽くします。

新島襄が47歳で病死すると、八重は同志社から離れ、日本赤十字社の篤志看護婦になり、日清・日露戦争の傷病兵の看護に当たり、茶道家としても活躍し、86歳で亡くなりました。

このように、八重の生涯は大きく三つの時期から成ります。

強い意志で運命を切り開いていった八重に、最も影響を与えたのが17歳年上の兄・覚馬でした。本稿では、大河ドラマの最初のクライマックスとなる、会津戦争までの兄妹を紹介します。

会津藩には「什(じゅう)」という藩校に入るまでの子供たちの教育組織がありました。その什には「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」「弱い者いじめをしてはなりませぬ」「ならぬことはならぬものです」など八カ条の守るべき事項があり、凛とした武士の気質が養われたのです。

この点、「郷中(ごうちゅう)教育」のあった薩摩藩とよく似ています。会津と薩摩は、戊辰戦争では幕府の処遇をめぐり対立するのですが、それまでは共に幕府を支え、朝廷を守ります。例えば、1864年の禁門の変では、御所を攻める長州軍を、両藩は協力して撃退しています。敵同士だった長州と薩摩を同盟させたのが坂本龍馬で、以後、会津藩は孤立していきます。

花嫁修業より鉄砲

山本覚馬は1828年の生まれ。藩校の日新館で学ぶようになると、武術では槍で、学問では数学と兵学で頭角を現し、剛毅な性格で藩の期待を集めます。24歳で江戸藩邸勤番となり、遊学の機会を得た覚馬は、開国論者の松代藩士・佐久間象山や幕臣・勝海舟の門下生となり、砲術をはじめ西洋兵学、蘭学などを習います。大砲や砲弾の製造、射撃も体験し、持ち前の武芸の才で、射撃の名手となります。

3年後の1856年に会津に帰った覚馬は、蘭学所を開き、若手を教育するかたわら、兵制の近代化に取り組みます。槍や弓から大砲と鉄砲を中心とする部隊の編成と訓練です。蘭学所には、江戸で共に蘭学を学び、理化学が得意だった但馬出石藩の川崎尚之助を教授に招き、自宅に居候させます。八重は10歳から10年余り、兄に砲術の手ほどきを受け、藩の誰よりも射撃の腕を上げます。

会津は伝統ある大藩なので、兵制改革は保守派の抵抗に遭います。優秀な川崎を藩に留めるためもあり、覚馬は彼と妹の八重を結婚させました。

大砲頭取になった覚馬が京都へ行ったのは、1862年に幕府により京都守護職に任じられた会津藩主・松平容保(かたもり)に、砲術指南として呼ばれたからです。当時の京都は、尊王攘夷派と開国派が入り乱れて、幕府の出先機関である京都所司代では統治できなくなっていました。そこで、会津藩の兵力に京都の治安を委ねたのです。64年から覚馬は会津藩の大砲隊を率い、薩摩藩の大砲隊と共に御所の警護に当たります。以後、彼は会津に帰ることはありませんでした。

いわば火中の栗を拾うようなものですから、藩論の大勢は反対でしたが、初代藩主・保科正之の徳川家第一の遺訓と、孝明天皇に直接頼まれたことから、容保は辞退できませんでした。

その頃、吉田松陰の密航事件に連座し、謹慎処分を受けていた佐久間象山が、それを解かれ、攘夷派の公家を説得するため、幕府に京都に招かれます。そこで象山と覚馬の子弟は、協力して国事に奔走することになります。

また、覚馬は藩命で若い藩士を連れ、長崎に遊学して、外国人にあって世界の情勢を聞くほか、新式の銃を購入し、オランダ人軍医ボードウィンに目の診察を受けています。覚馬は射撃や糖尿病のため、目が見えにくくなっていたからです。

京都に帰った覚馬は、大坂にいた外国人らを招き、藩邸に洋学所を開きます。そこには向学心に燃えた各藩の若い藩士が集まりました。

1867年、山内容堂土佐藩主の建白を受け入れ、徳川慶喜は大政奉還を断行します。ところが、討幕側の薩長はさらに幕府を追い詰めようと、幕府を朝敵とする勅命を朝廷からひきだしたのです。ここに戊辰戦争が勃発します。内戦は外国の侵入を招くだけだと、覚馬は非戦論を唱えますが、徳川家を守るために藩命が下ると、それに従います。

会津から京都へ

会津の八重の元には、鳥羽・伏見の戦いで、弟の三郎は戦死、覚馬は斬首されたとの知らせが届きます。覚馬の場合は誤報でした。薩摩藩に捕らわれましたが、その学識から優遇されていたのです。会津藩は鶴ケ城に籠城し、徹底抗戦します。攻めてくるのは、薩摩軍が主力の新政府軍です。

圧倒的な火力の前に、会津藩の抵抗もむなしく、1868年9月に鶴ケ城は開城し、白虎隊は飯盛山で集団自決します。八重の夫・尚之助も一緒に戦いましたが、戦後は他藩の者として追放され、やがて二人は離縁します。

その後、女子供は解放され、覚馬が京都に生きていることを知った八重は、母を連れ、京都に向かったのでした。