機関誌画像

誌上講演会

教育評論家 棚橋 嘉勝

子供へ伝えよう命の尊さ

「死」を安易に考える子供たち

《命に過ぎたる宝なし》この世に生きている者にとって「生命」ほど大切な宝はないのです。

今日、私たちは恐ろしい時代に生きていると思います。意味もなく、わけもわからず殺されていく人、何の罪もない子供が親の虐待で死んでいく、この命を粗末にする「この世の中」を子供たちは、見、聞きすることに「生命」をどのようにとらえるのでしょうか。発想や姿勢は、犯されていくのではないでしょうか。

自殺者が年間3万人、特に注目すべきは、小中校生の自殺者が年々増えていることです。理由としては、家族関係上の問題、進路問題、いじめ等ですが、自殺の理由が見当たらない、「不明」が半数以上に上っているのが気にかかります。

自殺は、問題の解決の近道ではありません。自殺は自分の魂を永遠の悲しみに沈めます。また、家族や近親者を深い悲しみの中に陥れます。私たちの「命」の価値は、尊く、財宝をもっても買い戻すことができないのです。そこで、子供たちに「生命」の大切さをどう教えるかが親としての大きな課題だと思います。

近頃、子供たちが「死」という言葉を安易に使う傾向にあります。それはゲーム機の中では死んだ者が生き返るシーンがあるため、特に、児童が本当の意味での生物の「死」を理解できないままに、安易に使ってはいけない言葉を発し、死んでもやり直し(生き返る・再生)が簡単にできるのだと思っているのです。

ゲーム機での死者の復活と、キリスト教やユダヤ教などでの人間が死後再び生命を回復するという意味や、イエス・キリストの蘇りをさす「復活」とは相違するのです。

「死」を何とも思わない子供が増えてくるのではと考えたとき、身の毛がよだつ恐ろしさを感じます。

「死」に向き合い「生」を見直す

子供の頃、自然に接する機会が多かった私などは、昆虫をはじめ多くの生き物の生死に接してきた思い出がありますが、これらが自分の「死生観」につながっていたのだと思います。

人間は生まれたとたんに、間違いなく、死に向かって着実に刻一刻と近づいているのです。この歩みが人生の基調をなしているのです。だからこそ、健康に留意しながら生命の持続をはかり、時間を大切にすることによって、内容の充実を図るべきです。

「生命を大切にする人間は、時間を大切にする」(ベンジャミン・フランクリン)

私たちは、時間に投影された生命・人生をもっと慈しみ、大切にしたいものです。だからこそ、子供たちに、今を大事に生きてほしいと訴えることが必要です。

自分を大切にできない人間は、人の「生命」の大切さも次第に分からなくなってしまうのです。

先頃封切られた、「納棺師」を主人公に「先生」と「死」のつながりと家族愛を描いた映画《おくりびと》。これは、現代の日本人が死を忌避(きひ)するようになったのは、病院で臨終を迎えることで、死が日常生活から切り離されてしまったこと、その一方で自殺など不幸な死ばかりがメディアで伝えられて、死に対するイメージが暗く歪(ゆが)んでいるのではないでしょうか。この映画は死に向き合うことの大切さを描いたものだと思います。

一頃、身内に不幸があった場合、子供を葬儀場や火葬の場に参加させるなということがありましたが、命の大切さや、身内の死の悲しみの中で、死について教えるためにも、また、死を通して自分の存在意義を考えさせるためにも、葬列に加えるべきだと思います。

現在、多くが核家族で、身近に家族の死に接する機会が少なく、「死」をどう教えたらいいのか分からなくなっています。「生」から「死」へと最期を迎えた最愛なる家族との対面は、子供たちにとって、「生」を見つめ直す切っ掛けともなるのです。

「生命の存続」を語りつぐ

人はとかく、自分は「誰の世話にもならずに、生きているのだ」という高邁な心で、自分の周囲に、また、自分の目の前に開けた社会に目を向けがちですが、私たちは、生き物の「命」が私たちの「命」となってくれていることを忘れてはいけないのです。また、常に、数限りない者たちの「恩恵」を被って生きていることを忘れてはいけません。

また、自分の存在が先祖代々続いていることを、我が家の「歴史」を通して子供たちに教えることも必要で、その根本になるのが、「生命の存続」だと思います。それは、先祖から伝わる自分たちの生命の認識であり、生命の存続というものを深く感じることによって、ものの「生命」の尊さを肌で感じることができるのです。

子供に生きる意味を追求させるためにも、親が「死」の重い意味について語るべきなのです。充実した「死」を願うのであれば、充実した「生」についてどこまでも深く追っていかねばならないことを、心をこめて語りつぐべきだと思います。

どんなことに直面しても生命への尊さを思い、「自分の力で生きる」ことができるしたたかな精神力をもった子供を育てることです。

《朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり》「朝には元気だった者も、夕方には死んで骨になるかもしれない」という人間の命のはかなさを端的に表現した文章である蓮如(室町中期の僧・真宗本願寺第八代法主)の「白骨の御文章(ごぶんしよう)」。人間は誰でもが、「どのように生きるか」という現実的な問題とともに、「なぜ死なねばならないのか」という課題に突き当たってきました。誰もが避けることのできないテーマであることは分かっていても、だがその問いには、ふだん切迫感がないのです。

ここに、自分が生きていることの喜びと感謝、命の尊さを感じ、生きることの素晴らしさを表した、15歳の女子中学生の「目標を生きる素晴らしさ」(産経新聞掲載)という文を紹介したいと思います。

「私たちは普段、何事もなく過ごしているけれど、『生きる』とは、言葉で表せないほど素晴らしいものである。

今生きているということ、それは奇跡である。命を失ったとき、誰もが悲しむ。人生は一度だけなのだから、大切にすべきである。何かを失ったときに、初めてその大切さに気づく。それではもう遅い。本当に、今どう生きるのか、真剣に考えるべきである。ただ呆然と生きているだけでは、得るものがない。

あたり前のことをし、そのうえ自分の目標を持って一日一日を無駄にするまい。自分の周りには温かい家族、友達たちがいるのだから。『目標を持って生きる』。それが一番大切なことだと思う。そして、親に心から『産んでくれてありがとう』と言いたい。」(原文のまま)

困難に打ち勝ち生き抜く力を

いまほど、人の生命が軽視されている時はないのではないでしょうか。残念ながら、人間の性(さが)というか、いじめや虐待、殺人など浅はかな行為はこの世から無くなるとは思いません。

人はまた、それぞれ、悩みや困難に直面することがあります。人生の歩みは決して平坦なものではなく、それらに打ち勝つ精神力と夢を持たせ、踏まれても生きて生き抜く、雑草のような意欲を持って、生きていることの喜びと尊さを知らしめ、明るく力強く生き抜くよう子供へ「命」の尊さを伝えましょう。