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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

賀川豊彦とハル

キリスト教の伝道だけでなく労働・農民・生協運動などに邁進する夫をハルは支え続けた

人にほどこす妻恋し

大正から昭和の戦前戦後にわたり活躍した、日本を代表するキリスト教社会運動家が賀川豊彦です。スラム街で伝道しながら貧しい人たちの生活改善に取り組み、社会福祉法人・学校法人イエス団をつくるとともに、労働運動や農民運動を指導し、生活協同組合や農民組合を創設しています。

その賀川が、妻ハルに次のような詩を贈っています。「千金万を手にしつつ襦袢の袖をつくろうって人にほどこす妻恋し。/財布の底をはたきつつ書物数えて売りにゆく、無口で強き妻恋し。/……」

賀川の火を吐くような説教に引かれ、結婚して活動を支えたハルは、夫の死後、その活動を引き継いで社会活動に生涯を捧げます。長年の功績から名誉都民の称号が贈られ、94歳の長寿を全うしました。

妾の子として生まれ

賀川豊彦は明治21年、神戸市で回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として生まれました。いわゆる妾(めかけ)の子です。幼少期に相次いで父母と死別し、五歳の時に徳島の本家に引き取られました。

ところが、兄の放蕩で賀川家は破産し、15歳の豊彦は叔父・森六兵衛の家から旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高校)に通います。在学中、英語を習っていた日本基督教会徳島教会の宣教師マヤスに伝道され洗礼を受けました。

多感な賀川は安部磯雄、木下尚江の本を読んでキリスト教社会主義に共感し、トルストイの反戦思想にも影響され、伝道師を志して明治学院高等部神学予科に入り、神戸神学校で神学を学びました。

この頃、賀川は結核に苦しみますが信仰で乗り越え、明治42年に22歳で神戸市新川のスラムに住みます。また、伝道をしながら、一膳飯屋「天国屋」を開きました。

アメリカのプリンストン大学に留学し神学を学んだ賀川は帰国後、神戸のスラムで無料巡回診療を始め、さらに労働組合運動に関心を持ち、大正8年に友愛会関西労働同盟会を結成し、理事長に就任しました。翌年には神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ)を設立しています。大正11年には日本農民組合を設立し、12年には関東大震災被災者の救済活動を行っています。

その後、再臨運動が盛んになると、賀川は社会運動から宗教活動へと比重を移し、全国を伝道で回り、アメリカや中国、ヨーロッパでも講演しています。

戦後、賀川は東久邇宮内閣の参与となり「一億総懺悔運動」に協力し、日本社会党の結成にも参画します。晩年は世界連邦運動に取り組み、昭和30年にはノーベル平和賞候補者にも推薦されています。

事業は愛の実践

戦前、社会主義思想が高まる中、賀川は唯物論を徹底して批判しましたが、イギリスが発祥の生協運動では、イギリス系のロッチデル派だけでなくモスクワ派とも共に活動しています。両派の間で何度も分裂の危機がありましたが、賀川は「考えの違う人とも同じ目的のためには一緒に行動しよう」と説得しました。

労働組合と始めた神戸消費者組合は、山の手の夫人たちの灘生協と合同することで発展します。貧民街にいながら上流夫人とも話ができたのです。

敗戦の時、中華民国の蒋介石が「恨みに報いるに徳を以てす」と日本人に温情を示した背景には、賀川に心酔していた蒋介石の妻・宋美齢の働き掛けがありました。宋美齢はクリスチャンで、蒋介石は結婚する時に改宗しています。

賀川と共に神の国運動で中国を巡回伝道した黒田四郎は昭和14年12月23日、現地で次のようなラジオ放送を聞きました。

「私は日本人が憎い。日本軍のやることは絶対に許せない。しかし、私は日本を滅ぼしてください、日本軍人を皆殺しにしてください、と祈ることはできない。それは、日本にドクターカガワがおられ、今も中国人のために涙の祈りを神にささげていてくださるからです」

昭和51年、EEC(ヨーロッパ経済共同体)議長のコロンボ・イタリア外相が、日本の国会に宛てたメッセージに、「競争的経済は、国際経済の協調と協力を伴ってこそ、賀川豊彦の唱えた『友愛の経済』への方向に進むことができる」という言葉がありました。昭和11年(1936年)、カルヴァンの宗教改革400年を記念してジュネーブに招かれ賀川が講演した「ブラザーフッド・エコノミー(友愛の経済)」を踏まえたものです。

勝ち気で女らしい女

明治44年に23歳の鈴木ハルは、女工として働いていた会社に讃美歌指導に来た賀川と運命の出会いをします。賀川も23歳でした。「隣人を愛せよ」というキリストの教えを実践している賀川に、ハルは強く引かれます。

結婚を申し込んだのは賀川で、ハルは熟慮の末、生涯の献身を誓って承諾します。結婚したのは大正2年、賀川はハルのことを自伝小説『死線を越えて』で「ジャンヌ・ダークのように思える勝気な、健気な、そして女らしい女だ」と書いています。

昭和35年、賀川が危篤状態になると、ハルは夫の頭に手を当て、「よくお働きになり、ご苦労さまでした」と別れのあいさつをしました。ハルあっての豊彦であり、豊彦あってのハルだったのです。