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歴史と家庭

ジャーナリスト 高嶋 久

清水安三と郁子

戦前、北京に貧しい少女の学校を開き、中国から教育の恩人と尊敬されている日本人夫妻

宣教師として中国へ

今、中国では尖閣諸島問題をめぐり反日運動が高まっていますが、その中国で教育の功労者として尊敬されているのが、桜美林大学の創立者・清水安三(やすぞう)です。

明治24年、滋賀県に生まれた清水は、中学時代にウィリアム・メレル・ヴォーリズの感化を受け、同志社大学神学部に進みます。ヴォーリズは英語教師として来日した建築家で、メンソレータムで知られる近江兄弟社を創設したアメリカ人です。

同志社大学を卒業した清水は大正6年、宣教師として中国に渡ります。当時は第一次世界大戦の最中で、日本も連合国に加わり、ドイツが支配していた青島(チンタオ)を攻撃していました。日本の中に大陸熱が高まりつつあった時代です。「誰か、支那へ行かないか」の声に応え、手を挙げたのが清水だったのです。「支那の貧しい人々のために伝道におつかわしください」と。その時、清水の脳裏に去来していたのは、5回の失敗と失明にもかかわらず、日本に渡り、仏教の戒律を伝えた鑑真でした。

清水は最初、大連で布教活動を始め、翌年、奉天に移り児童園を開きます。そして大正9年に北京へ移り、朝陽(ちょうよう)門外に開校したのが崇貞(すうてい)平民工読学校で、翌年、崇貞女子学園と、昭和13年に崇貞学園と改名されます。北京で清水が目にしたのは貧困に喘ぐ少女たちで、そこには多くの朝鮮人もいました。

彼女らの多くは、貧しさのため少女時代から身を売っていました。それを救うため、セツルメントとして開いた手芸学校で、授業料は無料、読み書きに加えて刺繍などの実技を教え、製品を中国や日本で売り、経営していました。後に小学校や中学校を併設し、中国人のみならず朝鮮人、日本人も一緒に学ぶ学校として発展します。

開校当時、清水は29歳。宣教の伴侶として、同じ同志社大学家政科の学生だった横田美穂と結婚しています。開校の前年、中国は華北が干害で大飢饉に見舞われ、清水は朝陽門外に災童収容所を設置し、夫婦で農村各地を荷馬車で回り、799人もの飢えた子供を親から預かります。収容所で面倒を見て、農村の収穫が回復すると親元へ帰したのです。

日本の大陸進出を批判

清水が崇貞学園の理事長に迎えたのが周恩来の先生だった張伯苓(はくれい)です。当時の中国では五四運動と呼ばれる反日運動が高まっていました。朝鮮でも三一運動が起こっていました。

清水は文筆でも活躍します。日本国内の新聞や雑誌に寄稿し、北京で発行されていた「北京週報」の主筆も務め、五四運動以後の中国情勢を日本に伝え、軍事的な日本の中国政策を批判したのです。

当時の日本は「大正デモクラシー」の時代で、言論の自由がありました。それが抑圧されるようになるのは、共産主義運動の高まりを受け、大正14年に治安維持法が公布されてからです。

この間、清水はアメリカのオベリン大学で神学を、ミシガン大学で教育学を修め、昭和五年帰国して、青山学院の教授になります。妻の美穂は結核に冒され、昭和8年に京都で亡くなっています。38歳という若さでした。その後、清水は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)を卒業し、同じオベリン大学に留学して、帰国後はジャーナリストとして活躍し、『男女共学論』を著していたクリスチャンの小泉郁子と再婚します。

文筆家としての清水は、国民新聞(今の読売新聞)の特派員として南方に赴き、昭和2年に蒋介石と単独会見しています。蒋介石は孫文の死後、中華民国・国民党軍の指導者となっていた人で、戦後、共産党軍との戦いに敗れ、台湾に逃れて、実質的に支配します。

また、中国共産党創設者の一人、李大釗(りたいしょう)や魯迅(ろじん)、胡適(こてき)、周作人(しゅうさくじん)ら文化人とも親しく交わります。魯迅は『阿Q正伝』を書いた中国近代文学の草分けで、周作人は戦後、中国語訳『古事記』を初めて出した人です。

清水は日本の大陸出兵を激しく批判しますが、日本の勢いは止まらず、中国も抗日戦争に進んで行きます。そして、日本の敗戦とともに崇貞学園も閉鎖され、清水夫妻は昭和21年に帰国します。

桜美林大学を創立

清水夫妻が、縁故の多い関西ではなく、東京に出たのは、キリスト教社会活動家の賀川豊彦の影響を受けたからです。神戸の貧民街での伝道で知られる賀川ですが、一方で、徳島県鳴門に農民学校を開き、農村伝道を提唱していました。賀川の小冊子『農民福音学校読本』を読んだ清水は、東京近くの農村に、農村伝道学校を設立しようと考えていたのです。

当時の思いを、「神よ、日本を再び建てる為に私共をお用い下さい。神、若し用い給うならば、私共は、中国で摺すりへらした残滓(ざんし)の様な体ではありますが、身を粉にして働きます」と記しています。

そして、清水の志を知った賀川の紹介で訪れたのが、町田市にあった旧軍需工場工員寮です。清水夫妻は昭和21年5月、そこに桜美林学園・桜美林高等女学校を開校します。桜美林の名は、夫妻が留学したオベリン大学から取ったもの。それが今の桜美林大学です。

崇貞学園は現在、陳経倫(ちんけいりん)中学校として清水夫妻の歴史を引き継いでいます。