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春夏秋冬つれづれノート

ジャーナリスト 堀本和博

終戦の年の1月に贈られた水仙とあらせいとうとエリカの花束のエピソード

年の瀬まで借金取りに追い回された石川啄木は日記に「(晩)11時を過ぎてようやく債鬼の足を絶つ」と書いている。明治40年(1907年)、北海道は小樽で迎えた大晦日(おおみそか)のことである。

今の文学者はどうなのか知らないが、昔は”金欠病”に苦しんだ文学者が少なくない。毒舌で鳴らした明治の小説家・斎藤緑雨(りょくう)も「12月31日、敵ありて味方なし、1月1日、味方ありて敵なし」(「両口一舌」)と身辺雑記している。

一夜明けると、目に入る風景はまったく違ったものになるのであろう。啄木は「何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝、晴れて風なし。」と打って変わって爽快そのものの心境。1年の最初の日、出発の日はそれだけでめでたく、まっさらな気持ちで祝いたいものである。

1月の花のエピソードをひとつ。小泉信三博士=明治21(1888)年〜昭和41(1966)年=は、自由主義の立場から共産主義とマルクス経済学を合理的に批判した経済学者、慶應義塾長、今上天皇の皇太子殿下時代に教育掛をされたことで知られている。文化勲章受章者、名誉都民。

その小泉博士が終戦の年の昭和21(1945)年1月に、東京・三田の自宅から花を買いに、丘と川を越えて六本木まで歩いていった。

花屋で買い求めたのは、水仙に、白と淡紅色の花をつけた「あらせいとう」(別名・花大根)と、淡紫のゴマ粒大の花がびっしり群がり咲くエリカの花束。とみ夫人に贈る誕生祝いだった。

終戦の年。物資も乏しい米軍空襲の恐れがある危急時のこの行動が「何か攻撃を無視した行為のように思われて、それが愉快であった。妻は果して贈り物に驚いた。2人の娘は共に父の行為を賞賛した」。

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小泉博士56歳、とみ夫人50歳のときのエピソードは戦後、博士が雑誌に「戦時の花」として書いたことで分かったが、話はここで終わらない。博士は昭和41年5月に不帰の人となるが、翌年のとみ夫人の誕生日には、水仙とあらせいとうとエリカの花束が小泉家に届けられた。贈り主は現在の皇后陛下、当時の皇太子妃美智子さまからであった。

このエピソードは、読売新聞の看板記者(特別編集委員)・橋本五郎氏のエッセイ「五郎ワールド/『老いの哲学と「戦時の花」』」(平成24年10月13日付掲載)で教えられたのである。

〈水仙の花の高さの日かげ哉〉 智月尼(ちげつに)