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福祉のこころ(18)

TLSC 山根 花堂

「福祉」と「福地」と「幸福感」

韓国人の友人から聞いたことですが、韓国では福祉のことをハングルで「복지」(ポチ)と記(発音)し、漢字語に表すときは「福祉」とも「福地」とも書くといいます。どちらも誤りではなく、「복지」は、文章でも音声でも、前後の流れから、そのいずれかの意味を判断するとのことです。

日本でも、「福祉」の漢字のもともとの意味が、「幸福に満ちた幸せ」といったことですので、お隣の国で「福地」の意味する「幸福に満ちた地」という意味を同じく表現していると知り、我が国との漢字の共通性がとても面白く新鮮に感じました。

さて、今日の日本で広くイメージされている「福祉」とは、未成年者や高齢者、障害者など、生活支援や介助を必要とする人や経済的困窮者などに対して行われる、生活の質の向上を意図したサービスやその制度、設備を、社会的に整備したり提供したりすることと理解されています。しかし、利用者様はこのようなサービスを受けることで、果たして本来の字義通りの幸福で幸せに満ちた生き方を本当に得ることができているのだろうか、と思うことがあります。

先日、NHKの番組で、「『幸福感』の要素」というテーマの、ある最近の学説を紹介していました。「幸福」ではなく、「幸福感」の要素だと。また、それは「ラッキー!」「ハッピー!」といった、一時的な嬉しさや楽しさ、得をしたなどの、その時だけの高揚感ではなく、生活に根ざした「継続的な幸福感」の要素ということでした。その要素は三つ。

一つ目は、「人間関係」。自分と家族、友達、社会などとのコミュニケーションを適切に取れているということ。

二つ目は、「親切心」をもっていること。何かしら他の利益のために、自らの損を顧みず行動すること。貢献感や愛情の思いで行動すること。

三つ目は、まさに「その場にいて」行うということ。

なるほど、このようなポイントを押さえながら意識して生活するときに感じる自信と満足感を持てたら、それが幸福感といえるものかもしれないと率直に納得したのでした。

例えば、家庭で毎朝少し早く起きて、祈り、家族のため食事を準備するとか、仲間同士の集いや会社や学校に早く出て、掃除したり準備したりといった、それぞれが属する人間関係の中において、他のために無償で役に立とうという行いの継続なのかもしれません。他人から見て、愚かで損でバカな行為と思われることを敢えて行うことも、何ら憚(はばか)ることのない基本的人権の権利行使といえるのではないでしょうか。

さて、このテレビ放送を観て、日々、支援業務や技術、仕組みなどを提供している私たちが、利用者様の幸福感への思い遣りや、愛情と良心に基づく努力や犠牲が無ければ、本来の福祉の意味する幸福感は実現しないのではないかと思ったのでした。つまり、「福祉社会」に自他ともに生きるということは、自分を取り巻く人間関係のなかで、まず、自分が幸福感の「実践者」であり、家族や友人や事業所が幸福感の持ち主で満ちており、利用者様にも幸福感を持っていただきたいという、「利他愛の実践の連鎖」があって、結果として訪れるものではないかと思うのです。