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世界の芸術と家庭 [1]

岸田 泰雅

カルロス4世の家族肖像画

家族の肖像画

東西の絵画において、家族の肖像画が描かれた作品はそんなに多くはない。まず、家族をしっかりと描いてもらおうという動機、目的、きっかけが必要であるが、一般庶民の中に家族の肖像画を残そうとする動機は、現代においてはいざ知らず、古い時代には極めて稀であった。現代でも、画家の手を煩わせるというのは余程のことであり、大抵は、写真という便利な手法で家族写真が大量に撮られている。

昔は、例外的に王侯貴族に雇われた宮廷画家が王家の家族を描くのが一般的で、画家は、その職務上、王家の家族肖像画を義務として描いた。したがって、ヨーロッパ各国が16、17世紀の絶対王政や18世紀の啓蒙専制君主によって支配されていた時代に、王家の人々の肖像が多く描かれたのは必然のことであった。写真技術のなかった時代には、腕のある画家が宮廷に召し抱えられるほかなく、画家によって王家の家族の姿が後世に遺されることになったのである。

ゴヤとカルロス4世

カルロス4世の家族肖像画
カルロス4世の家族(1800-1801年、プラド美術館所属)

ゴヤ(1746〜1828)は、1800年から1801年にかけてスペインのカルロス4世(1748〜1819)の家族肖像画を描き上げた。非常に緻密な筆致である。赤いズボンを穿(は)いた小さな子の両脇にいるのが、カルロス4世と妻のマリア・ルイサである。王は、妻との間に14人の子供を儲け、子宝に恵まれたが、7人が成人しただけであった。子供たちと孫に囲まれて描かれた家族の肖像、この作品から何を読み取ることができるのか。

まず、目に映るのがカルロス王のがっしりとした体躯(たいく)である。描かれている通り、王は極めて体力に恵まれていた。若い頃は、農村地帯で力ある者たちとレスリングをするのが大好きで、大抵は、王の体力の前に村の青年たちは敗北を喫した。体力に恵まれる一方で、知力の方はもう一歩というところであった。

それゆえに、政治を賢明に行うという能力に欠けていた分、妻のマリア・ルイサが思うままに政治を動かした。妻は知恵者のゴドイを相談者として重用し、カルロス王が政治に関与する余地はほとんどなかった。確かに、描かれているマリア・ルイサは性格がきつそうであり、王を平気で無視するような強そうな女の雰囲気がどことなく漂っているのをゴヤは正確に描き出している。

ゴヤは、宮廷暮らしの中で、王とその妻を身近に観察しながら、王の愚鈍でお人好しな性分と妻の抜け目ない権力欲の狡猾)(こうかつ)さを知り抜いていた。こうした王と妻の姿に困り果て、嫌気がさすばかりであった。カルロス王を差し置いて、ゴドイを重用するマリア・ルイサの態度には呆れ返るほかなかったが、さりとて、ゴヤがでしゃばる役柄でもなく、カルロス王もまた、妻がゴドイと相談しながら政治を行っていることを寛大にも容認していた。そして、カルロス王は窮屈な宮廷を離れ、狩りに出るというアウトドア型の人生を楽しんだのである。4人の娘と3人の息子たちはそれぞれ王家や貴族と結婚して、王妃や王としての人生を送っている。

一国の王がどんな家庭生活を送ったかなどのエピソードは、縷々(るる)と記録されたり、語り草になったりするものである。だが、フランス革命が1789年に起きた時期に重なる時代が、スペインのカルロス4世の治世であったことを思えば、この王はもっと波乱万丈の人生を送る可能性を秘めながら、その時代の中では、比較的、平穏な人生行路を辿ったと言える。晩年は、いろいろと困難な状況に立たされることが多かったのであるが、陰惨な事件などで命を落とすというまでには至らなかった。不思議にも守られたという僥倖(ぎょうこう)に浴したと言えるのであろうか。

王家の家族の一般的な特徴

王家というものは、為政者としての最高権力を保持している立場上、そこには必ず権力闘争が不可避的に付き纏(まと)う。カルロス4世の場合、後継問題で血なまぐさい権力闘争が見られたというわけではなかったが、ナポレオンのスペインへの介入で、父カルロスと息子フェルナンドは態度を一致させることができなかった。

肖像画に向かって、左側から2人目に長子フェルナンドが描かれている。彼はフェルナンド7世として後継の座を得て、即位を果たした。ナポレオン時代の最中とその後の国際政治の激動を生き、辛酸をなめたフェルナンドの人生が父より遥かに悲劇的であった。一つの家族肖像画の中に、父子2代の人生模様が密かに暗示されているなどは神のみぞ知るである。