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春夏秋冬つれづれノート

ジャーナリスト 堀本和博

日本人の心に密着して清々しさから華やかさに関わりを変化させてきた桜

〈世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし〉在原業平(ありわらのなりひら)の歌「伊勢物語」

春もたけなわの4月。二十四節気の清明(せいめい)(今年は5日)は「清浄明潔」を略したもので、春先の清らかで生き生きした自然の様子を表し、桜や草木の花が咲き始めるころをさす。明るさを増す陽光の下で、人のこころも軽やかに活動的になってくる。

桜

この季節、桜前線の北上が毎日のニュースになるほど、桜は日本人の心に密着しているが、その関わり具合は歴史の中で変化を見せてきた。散り際の潔さや華やかさ、ぬくもりのある美しさで日本人の心をとらえてきた桜は、今ではソメイヨシノであるが、それは明治以降のこと。

ソメイヨシノは明治初期に東京・染井(今の豊島区内)の植木職人がつくり出し、全国に広げた園芸種の新種。東京の桜開花宣言の標準木が靖国神社のソメイヨシノであることはよく知られているが、今は数ある桜名所の中でも、最初からソメイヨシノを植えて桜並木に整えたのは靖国神社が初めてであることは余り知られていない。明治3年から境内への移植が始まったと記録されているのである。

桜は園芸種で300種を超え、古来からの自然の自生種で6群11系統あると言われるが、自生種の代表が山桜である。明治より以前の桜は山桜を言う。ソメイヨシノのピンクと違い、花と同時に出る葉の芽の色を映した薄緑がかった白い花は清々しい感じがする。

山本一力の時代小説に『八つ花ごよみ』(新潮文庫)がある。桔梗(ききょう)、女郎花(おみなえし)、小梅、桜など8つの花の季節の景色に、喜びや悲しみをともにしてきた江戸市井の夫婦や家族の絆を織り込んだ短編8作品を収めている。

その一編に、病気で意思表示もままならなくなった妻を介護する夫が、特製の車椅子に妻を乗せ菩提寺の花見に連れ出す「西應寺(さいおうじ)の桜」がある。

「住持の目は、千代に戻っていた。/「千代殿は、ここに来たいと願っておられたようだ——それでよろしいか?」/住持が問いかけるなり、千代の両目から涙がこぼれ出た。/くまがくうんと鼻を鳴らした。/涙だが、千代は答えた」

「そよ風と呼ぶには強すぎる風が、境内を流れた。風に舞った花びらが、千代の身体に舞い落ちた。/ひとひらは、顔に落ちた。/うれし涙が、花びらを浮かべていた」

美しく清々しく映る山桜と夫婦の絆の豊かな滋味が、じんわりと心に沁み入る名作短編である。