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世界の芸術と家庭 [4]

岸田 泰雅

江戸時代の平和な家族の姿

夕顔棚納涼図屏風

夕顔棚納涼図屏風
夕顔棚納涼図屏風(部分)(東京国立博物館所属)

「最も国宝らしくない国宝」と言われる狩野派の画に、「夕顔棚納涼図屏風」という作品がある。しかし、この画は狩野探幽(1602〜1674)の弟子で、最も優秀な後継者とまで言われた久隅守景(くすみもりかげ)(生没年不詳)の手による作である。夕顔棚のもとでのんびりと涼む家族は、一体、誰であろうか。これまで様々な解釈を生んできた。一般的に言われるのは、農村を描いた風俗画で、夫婦とその子であるというものである。しかし、よく見ると、女性の方が非常に若い。これはかなり歳を取った父親とその娘そして小さな息子であるにちがいないとする見方がある。なぜ、そのような解釈が出たかと言えば、画中の親子は、久隅守景その人とその息子の彦十郎、娘の清信を表していると見立てたからである。しかしまた、この3人は守景と妻の国(くに)そして息子であるという見方もある。要するに、若い女を娘と見るか妻と見るかの解釈の違いである。男は決して年齢のいった人物ではなく、まだ若い30代の男だと解釈する。はたして、3者のなか、どの解釈に真偽があるのか定めがたいが、どうやら、久隅守景の家族が描かれているのは間違いない。

久隅守景は江戸の窮屈な画壇を離れ、加賀の金沢に移り住んだ人物である。隠棲(いんせい)生活をのんびりと楽しむ守景自身の姿が画中に暗示されることは大いにあり得ると言わざるを得ない。そのように見ると、男の表情も農夫の顔ではなく、事物を深く観察して画筆を揮(ふる)う画家の表情に近い。どこか凛とした表情が感じられる。この画には「夕顔棚」という名称があるので、描かれている棚には当然、夕顔が咲いているのであろうと反射的に思ってしまうのであるが、よくよく観察すると、瓢箪(ひょうたん)のようにも見える。あるいは夕顔と瓢箪のミックス状態なのか。「最も国宝らしくない国宝」と揶揄(やゆ)される「夕顔棚納涼図屏風」は、描かれた家族の構成と棚の植物を巡って、思いの外、論議を呼ぶ作品となっている。

狩野派と久隅守景

狩野探幽は狩野派を代表する画家で、江戸幕府の御用絵師という狩野派の重鎮であるが、その中に四天王と称される弟子があり、久隅、神足、桃田、尾形の4氏の名が挙がっている。久隅はその四天王の中の筆頭格であった。探幽の姪である国(くに)を妻に迎えていることからも探幽の期待度が伝わってくる。しかし、江戸の画壇の空気は守景には合わなかった。狩野派の画法を体得するものの、もっと自由に筆を動かしたいという願望を抑制することができず、江戸を離れた。30代以降、金沢や京都で暮らすことになる。「四季耕作図」に見られるような農民の暮らしを自由に描く精神を存分に発揮しながら、狩野派には見られなかった新境地を切り開いていく。かくして守景は北陸、関西の西の地で独自の画風を拓いて行くのである。

現存する守景の作品がおよそ200点にものぼることから、生涯にわたる旺盛な創作意欲を認めることができるが、それは、寛永年間(1620年代)の誕生時から元禄年間(1690年代)にわたる17世紀を駆け抜けて生きた守景の人生の中で、長期の絵画制作の活動があったことを意味する。おそらく50年以上の旺盛な制作活動に終わりを告げ、70歳を超えてあの世へ旅立ったと思われる。

文化の花が咲き誇った江戸時代

日本の歴史を見るとき、小競り合いはあっても大きな動乱や戦争がなく、太平の世を長く続けることのできた時代は江戸時代(1603〜1868)である。世の中が秩序と安定を保った時代である。

平和が保たれると、文化の花が咲き誇り、人々は歌舞や文芸、芸術に楽しみを見出すことができるようになる。鎖国は外国との貿易および文物の交流を、長崎の出島を中心としてオランダと中国(清)に制限した。朝鮮とは鎖国中も唯一正式な国交が保たれた。朝鮮との交易は朝鮮に一番近い対馬藩が担当した。鎖国とは言え、江戸時代の学問と文化の水準は今日から見ても非常に高いものがある。浮世絵の版画技術による流布はもちろん、御用絵師の狩野派や土佐派の活躍、琳派の絵画、工芸、また多くの文人画の流行、応挙や若冲の写生画など、百花繚乱の勢いを見せる芸術の開花があった。そのような天下泰平の徳川幕府の治世下で、久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」が世に出たことは、一つの時代の空気を反映している。それは関ヶ原の合戦を最後に戦乱の世を終え、家族がのんびりと夕顔棚のもとでくつろぐ、まさに守景が体験した江戸時代の平和の姿、家族の絆の姿である。