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世界の芸術と家庭 [5]

岸田 泰雅

家族の喜びと幸せに遠かったピカソ

道化師の家族

Famille de Saitimbanques

ワシントン・ナショナル・ギャラリーに、「サルタンバンクの家族」と題された油彩が掲げてある。作者はピカソ(1881−1973)で、1905年の作とあるから、ピカソの非常に若い頃の初期の作品であることが分かる。

生涯において、1万3500点もの油絵と素描を残した多作で精力的な画家ピカソであるが、若い頃の創作モチーフとして「旅芸人」「サーカス」「大道芸人」に関心を集中させた時期がある。それが「ばらの時代」と呼ばれる時期で、1904年から1907年に当たる時代である。この時期の代表作として「サルタンバンクの家族」がよく挙げられる。「サルタンバンク」とは、フランス語で「軽業師」「道化者」のことで、ピカソの「サルタンバンクの家族」に描かれた家族は、すなわち、大道芸人の家族、あるいは、サーカスの家族である。

描かれた6人は、赤い道化服を纏(まと)った最長老(祖父)、その一家の長老と話し込んで、こちらに背中を見せている格子縞の模様の服を着た男性(夫)、少し離れて座り込み、何かをじっと見入っている、おそらく一座の花形であろう女性(妻)、この3人が大人である。そして、子供たちが、男の子2人、女の子1人の計3人が描かれている。女の子は父親の手をしっかりと握り、地面の方に目を落としている。男の子の2人は、母親と一緒の方向に視線を向けているが、3人が見つめているものが何であるか、この絵画からは判断できない。

下層の人々に関心を向けたピカソ

世の中にはいろいろな職業があり、いろいろな家族があるが、道化師を生業とする家族に関心を寄せるピカソの目は、一体何を道化師たちに見ていたのであろうか。「サルタンバンクの家族」をよく見ていると、何か家族がバラバラな感じがする。また、ついさっきまで、人々の前で笑わせ、曲芸を演じて楽しませた公演の賑(にぎ)わいと興奮がどこかへ消え去り、空しさと虚無感と興行の疲労感が家族を覆っているといった感じがしてならない。アクロバットや道化芝居で若干の収入を得て、旅から旅へその日暮らしを続けるこの家族に希望に輝く明日の未来があるわけではない。まさに、1日1日を道化師家業で精一杯生き抜いていくしかない家族の姿である。何とも言えない人生の悲しさがどこかに漂っている油彩を、ピカソは描き上げたのである。

これは、深読みを許されるならば、作品を描いた当時のピカソの自画像あるいは心象風景に近かったのではなかろうか。当時、ピカソは足繁くサーカスに通っている。道化で生きる者たちと自分を重ね合わせるピカソがそこにいたのではないだろうか。膨大なピカソ作品群が、その後、世に示されていくわけであるが、既成の社会秩序に背を向けるピカソの姿が、しばしば、垣間見られる。激しく社会に抗議するピカソの反骨精神がその作品群の中に顔を出す。おのずと、最下層の人々への共感、同情といったものが、ピカソの心中に渦巻いていたとしても不思議ではない。

20世紀画壇の巨匠ピカソ

ピカソはスペインのマラガに生まれ、パリで活躍した20世紀画壇の巨匠である。その作風の変転目まぐるしい呼び名は、或いは「キュビズム」、或いは「新古典主義」、或いは「シュルレアリスム」と、一体、どれが本当のピカソなのか、変幻自在の彼自身も分からなかったのではないか。いや、どれもが本当の彼の姿であったというべきか、人々を惑わし続けたピカソである。

「サルタンバンクの家族」で感じられる家族のバラバラ感、悲哀感は、もしかしたら、その後のピカソが作り出す家族の予兆的油彩であったのかもしれない。生涯に亘って、幾度か妻を取り替えたピカソであるが、最初、オルガ・コクローヴァと結婚し(1918年)、その後、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始めた(1932年)。さらに、フランソワーズ・ジローと共同生活を始め(1946年)、最後に、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める(1954年)という具合であった。

家族の喜びと幸せに遠かったピカソの人生の実相を見るが、有名なエピソードとして、ピカソの最愛のパートナーは「鳩」であったという話がある。アトリエに妻も入れなかったピカソであったが、鳩だけは特別に入ることができたという。願わくは、鳩ではなく、家族そのものを大切にする人生を送ってもらいたかったとピカソにいまさら期待しても、無駄な話であるが、ピカソはその不条理な人生を自身の作品の中に投影し昇華させて生きていたのかもしれない。