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世界の芸術と家庭 [8]

岸田 泰雅

兄弟愛を最高の思い出として

往年の日本の光景

姉弟

姉が弟をおんぶしている。このような光景は明治、大正、昭和の戦前、戦後まもなくの時代にはどこでも見られる姿であった。最近は滅多に見られない。時代の変化と言えば、その通りであろうが、ほんの最近まで続いた日本の貧しい時代、その貧しさにもかかわらず、子供だけはあの家もこの家も多く生んで、田舎の神社やお寺の境内、大きな空き地など、お決まりの場所に子供たちがどこからともなく集まって、わいわい遊んでいた、そういう平和な風情が至る所にあった。保育園や幼稚園に入るのを待機しているということなど想像も付かない時代である。

そもそも保育園や幼稚園に預けるという考えなどなく、上の姉や兄が下の弟や妹の面倒を見るというのが当たり前の時代、それが懐かしい日本の光景であった。特に、姉として生まれた女の子は、下の弟や妹を母親代わりになって面倒見るという定石のようなものがあった。中でも、関根正二(1899〜1919)が描いた「姉弟」(1918年作、福島県立美術館蔵)のような、下の子をおんぶするという仕事を文句も言わず、当たり前のように受け止める姉が、日常的に沢山いたのである。

だっこにせよ、おんぶにせよ、結婚前の現代の若い女の子たちは10分ももたないかもしれない。「重たい」、「泣いてる」とか何とか言って、逃げ出すかもしれない。苦労しているお父さんやお母さんの代わりに頑張るしかないと自分に言い聞かせて、黙々と下の子供の面倒を見る我慢強い姉や兄たちがいた日本、それが昔の日本の姿である。

夭折の画家、関根正二

関根正二は福島県の白河で生まれた。一家は東京へ引っ越すが、関根正二も深川の長屋で少年時代を過ごし、そこで知り合った伊東深水(日本画家として大家をなす人物)の紹介を得て、東京印刷会社の図案部の給仕となった。

会社の顧問を務めていた結城素明から日本画を学びつつ、本格的に、絵画の世界へ足を踏み入れていくことになる。会社の同僚に社会主義思想の持ち主である小林専がいて、彼の影響から洋画へ転じるが、突然、会社を辞めて、信州へと旅立った。そこでは洋画家の河野通勢と出会い、デューラーやレオナルド・ダ・ヴィンチなどの作品に影響を受け、画風を一変させた。16歳の時に描いた「死を思う日」が二科展に出品して入選を果たすと、そこから、それほど残されていない短い命を生き急ぐかのように世に残る作品を描き上げていく。

関根の色彩感覚に関しては、安井曽太郎からの影響が大きく、色彩の重要性を大いに学び取り入れたと言われる。いくつかの失恋の経験など、人生の苦しみを味わいつつ、やがて、彼の心情は信仰の世界を訪ね求めるようになる。1918年、関根が19歳の時二科展に出品した「信仰の悲しみ」は、高山樗牛賞を受賞し、彼の代表作の一つとなった。

その1年後には20歳で病死するという不運の生涯を遂げた画家の記念的作品として記憶されるべく、大原總一郎が何者かに動かされるかのように作品を引き取って、現在は大原美術館に収蔵されている。もっと生きてくれたら、多くの傑作を描いたことは疑いない関根正二であり、日本の洋画界を彩ったであろうと思われる。

兄弟の多かった関根正二

関根正二は9人兄弟の第四子、次男であったが、その兄弟の多さから「姉弟」のような兄弟愛的なモチーフを心の中に抱き続けていた一つの思い出が彼の中にあったのだろうと想像される。

少し深読みさせていただくならば、もしかしたら、おんぶされているのは関根正二その人で、おんぶしている優しい姉は正二の姉であるかもしれない。幼いときの「おねえちゃんのおんぶはよかった」という甘い思い出が、いつまでも正二の心の中に残っていたのかもしれない。このように想像するのも絵画鑑賞の一つであるとお許し願いたい。

結婚できずに夭折した関根には、夫婦愛の世界がなく、兄弟愛の世界が最高の思い出としてあった。それが1918年(19歳)作の「姉弟」である。亡くなる直前の作である。いわば、家族、兄弟姉妹たちへの遺言、遺品として描かれた作品と言えよう。このような想像を巡らしながら、「姉弟」の作品を見ると、正二をおんぶしている気丈な姉の姿に自然と頭が下がる。